川口英俊の晴耕雨読ブログ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」第四章「論理的縁起について」

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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第四章「論理的縁起について」

 次に、論理的縁起について詳しく扱いたいと思います。

 「AによってBがあり、BによってAがある」として、AもBも、縁起している相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的なるものとして、Aだ、Bだと言えるだけのことで、つまり、Aだ、Bだと言っているのは、言葉によって仮に設けられただけの、いわゆる「仮名・仮設・仮有」であって、何か、Aだ、Bだというような実体が、そもそもあるわけではない、つまり、AもBも「無自性・空性」であることを示すのが、この論理的縁起であります。

 また、そのA、Bというものは、例えば「苦楽」・「美醜」・「好き嫌い」・「愛憎」・「善悪」・「正誤」「貧富」・「優劣」など、私たちの(主観的・恣意的思惟、概念による)価値判断において分けたもののことや、「主客」・「自他」・「男女」・「同異」・「表裏」・「白黒」・「明暗」・「長短」・「大小」・「寒暖」、「○・非○」、「○・不○」なども含めて、あらゆる相対二元論のありようを扱うのが、この論理的縁起であります。

 例えば、「長い」は「短い」によって言え、「短い」も「長い」によって言える。「有る」は「無い」によって言えているだけであり、「無い」が無ければ「有る」は成り立たない、また逆もしかりであるということで、両者は相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的な縁起関係性において言えているだけのものであり、もしも、そのどちらかに実体があるとして、一方だけの世界があるとするならば、実は両者共にそう言えなくなってしまうというものでもあります。

 あくまでも両者が両方あってこそにおいて、両者共に言えているに過ぎないわけであります。

 それは、「迷いと悟り」・「煩悩と菩提」・「世俗諦と勝義諦」など、仏教における重要概念も同様であって、価値判断において分けたどちらかに実体があるのではない、どちらにもとらわれて執着してはならないというもので、更には、価値基準を設けて判断するような時間概念・「過去・現在・未来」なども、本来分けて実体視することができない、もちろん空間さえも実体視することもできない、あるいは「来る・来ない」・「走る・走らない」・「見る・見ない」・「知る・知らない」など、「働き」・「作用」すらも実体視することはできない、更には基準を設けて分別するような「数」や「量」も実体視できないなど、あらゆる全てについての「無自性・空」を理解することが大切となりますが、一応、世俗において、それらは論理的縁起関係で仮に有るものとして説明されるのだということであります。

 時空的縁起が示すのは、主体と客体、主観と客観という「見るもの・知るもの」と「見られるもの・知られるもの」の主客二元論を基底として、様々な存在の成立についての色々な原因や条件・結果を、一応は個物として認めざるをえないところにおいて、縁起関係を示したわけですが、論理的縁起関係は、最終的にそれらの個物すらも分別して、実体視して考えることはできないため、時空的縁起における原因・条件・結果の個物は成立しないことを示し、実は因果関係さえも否定することとなります。

 更には、人間が思惟分別、言語活動において、名前を付けているあらゆるものも、あくまでも仮構された概念的・観念的な存在であり、本当のそのものが何であるのかについて言及することは、本来不可能であって、一応は論理的縁起関係において仮に有ると言えているに過ぎず、それは、「有る」といえるものではないが、かといって「無い」というわけでもない、「非有非無」を理解して、「無自性・空」について考えるのが、論理的縁起の狙いであります。

 時空的縁起が扱うのは、主に現象・事象界の存在についてでありましたが、論理的縁起が扱うのは、より概念的・観念的な相対価値論・認識価値論・価値基準論における広範な分野であり、その示すところは、主客二元論・相対二元論を超えて、更には相対矛盾・対立矛盾を超えていくためであります。

 相対矛盾・対立矛盾とは、後の章にても詳しく述べますが、簡単に言いますと、虚妄分別を起こしてしまったそのどちらの分別における側にも、本来実体が無いのに、そのことが分からずに分別し続けて執着してしまう以上、まるで蜃気楼・逃げ水を追いかけるようにさ迷い求め続けることになり、両者の否定・肯定を無意味に繰り返し続け、結局はどちらの否定・肯定の進行においても、最終的に相互否定に至ってしまうということであります。

 この矛盾が分からずに、いつまでも虚妄分別したことにとらわれて、執着してしまっていることから離れさせるためにも、論理的縁起の理解が大切になるわけであります。

 また、論理学の命題における三大原則である同一律「AはAである」・矛盾律「Aは非Aでない」・排中律「AはBであるか、非Bであるかのどちらかである」にもとらわれず、この世におけるあらゆる一切の実体化を認めずに否定しきる、それは否定さえも否定するという「二重否定」でもあるのですが、「否定の否定」は、安易に肯定を意味するものではなく、あくまでも「肯定によって否定があり、否定によって肯定がある」という縁起関係において否定も肯定も言えているだけであり、どちらにも実体が無いということを示すための「二重否定」であります。

 繰り返しとなりますが、論理的縁起は、概念・観念・言語活動における表現、論理的思考なども含めて、あらゆることについての実体化を止滅した上で、言語道断・戯論寂滅へと至ることを示すわけでありますが、ここで少し言語活動の限界について、述べておきたいと思います。

 言語活動は、人間のコミュニケーション手段として重要な役割を果たしており、様々な学問も言語なしでは到底成り立ちません。言語活動は、人類社会の発展、文明の発展に多大に寄与してきました。

 しかし、果たして言語活動は万能であるのかと言いますと、決してそうとは言えません。

 例えば、真理というものを表すことはできるのでしょうか。

 確かに、色々と相手に分かってもらうために言語表現によって説明することはできるでしょう。しかし、「百聞は一見にしかず」という諺《ことわざ》がありますように、富士山を見たことのない者に、富士山は活火山で標高三七七六メートル、日本の最高峰で、雲の傘をかぶることもあり、雪化粧が美しく、赤富士は・・と、いくら説明したとしても、実際にその実物を見せない以上、その者に富士山そのものを分からせることは到底不可能であります。
 このように、言語活動に限界があることは当然に仕方ありません。仏教においても特に覚者が勝義諦(第一義諦)の真理について、どれほどに言語活動で説明したとしても、その真理が何であるかを、誰に対しても示すことはできないのであります。

 お釈迦様がお悟りを開かれた時、仏教の真理は思惟分別を超えたものであり、本当は言葉・言語では表すことができないが、それでも、その真理を説くためには、世俗における思惟分別をもって説かざるを得ないため、それではやはり理解されないかもしれないと危惧なされて、当初は伝道活動を躊躇されたというエピソードも当然のことであります。

 そのため、禅宗のように「不立文字《ふりゅうもんじ》・教外別伝《きょうげべつでん》」として最高真理は言語活動を超えたところであることを重視する宗旨もあります。

 しかし、安易に「言語道断」として沈黙してしまえば、それはそれでわけの分からないもの、何でもありにもなってしまいかねず、また神秘主義的傾向にも陥りかねない弊害があります。

 そのため、言語活動には限界があることをわきまえた上で、ぎりぎりまでは仏法真理について、先生・師からの言葉・表現・解説・比喩での学び、様々な仏典や註釈書、解説書での学びで、しっかりと理解してから、勝義諦についての直観的体験・体得へ向けて仏道修行の実践に取り組まなければならないということであります。

 また、不立文字・教外別伝を扱う禅宗においても、臨済宗では「公案《こうあん》」として、いわゆる禅問答を重視した師弟との表現のやり取りもありますが、それは、決して「単なる沈黙ではないという沈黙」を目指していかなければならないということで、このことは、次章における維摩経の内容において更に詳しく述べることと致します。

 とにかく、論理的縁起関係において示すことのできる、二元対立・二項対立を前提として成り立つ思惟・概念活動・言語活動は、もはや勝義諦という最高の真理へと至るためには、役に立たないということでもあり、いつまでも思惟分別、二元対立・二項対立において、この世におけることを捉えてしまい執着するような愚かなことは、いい加減に止めていくことが求められるわけであります。

 もちろん、無自性として示す「空」も同様に「空によって不空があり、不空によって空がある」として、世俗において自性・実体・人我・法我など「不空」なるものに、とらわれて執着してしまっている者の、その執着を離させるために「空」が説かれているに過ぎず、その「空」さえも実体視してしまうことは許されないのであります。

 あらゆるもの・こと・概念・観念・思惟分別の実体視をあまねく否定するのが、この論理的縁起の役割であり、般若思想・中観思想が最も重視した縁起となりますが、最終的には、この論理的縁起関係をも超えていくところを目指さなければならないのであります。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕
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一、はじめに
二、仏教基本法理の理解
三、時間的縁起・空間的縁起について
四、論理的縁起について
五、般若思想について
六、即非の論理について
七、中観思想・唯識思想について
八、華厳思想について
九、仏性思想・如来蔵思想について
十、相対から絶対へ
十一、絶対的絶対について
十二、確かなる慈悲の実践について
十三、現代仏教の抱える課題について
十四、最後に

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

島村大心先生の
「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・2004年7月31日]

「現代仏教学を再生するためのホームページ」
URL: http://www.h7.dion.ne.jp/~sdaisin/
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