川口英俊の晴耕雨読ブログ

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施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第六章 唯識思想の理解・上

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm



一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第六章 唯識思想の理解・上

 唯識思想は、中観思想と共にインド大乗仏教においては大潮流の一つであり、もちろん、日本にも伝わり、奈良仏教・南都六宗の一つである法相宗が、唯識教義を現在でも根本宗旨としています。

 唯識思想については、施本「仏教・~一枚の紙から考える~」におきまして、ある程度基本的なことを述べさせて頂いておりますので、今回はその内容を踏まえて考察して参りたいと存じます。

 龍樹による「中論」以降、中観思想の中心課題は、二諦(勝義諦と世俗諦)の解釈をめぐるものとなっていきました。縁起による否定(代表的な八不としての不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去)から戯論寂滅へと至る道を中論は示したわけです。

 しかし、いかにして世俗諦から勝義諦へと至るかということについては、「縁起」を用いること以外で、はっきりと具体的に示されることがなかったこともあって、その後、中観思想内においても大きく二派(自立論証派・帰謬論証派)に分かれての混乱に繋がってしまったのではないかと考えられます。

 この混乱の中、中観思想の空の論理を受け継ぎ、世俗諦から勝義諦へと確かなる転換を図るために、より具体的な思想として、唯識思想が登場することとなります。

 また、般若思想・中観思想以降、「空」について、「何も無い」として勘違いしてとらわれてしまい、虚無主義的に扱ってしまう傾向もあって、今一度「空」を正しく観ずるためにも、その修正が求められたことも唯識思想が登場する下地となりました。

 唯識思想は、ヨーガ(瞑想修行)を中心として、「心のありよう」を深く洞察してゆくため「瑜(ゆ)伽(が)行(ぎょう)唯識学派」と称されました。

 瑜伽行唯識学派は、「識」(ただ識別作用があるのみ)を中心として、戯論が寂滅し言語表現を超えていく領域について、中観思想における世俗諦と勝義諦をある程度、結合させる作業を進めることによって、より鮮明に真理を示めしていこうとしたのだと考えられます。

 もちろん、中観思想においては、何が勝義諦かを積極的に示そうとした自立論証派が出てきたものの、立論そのもの自体が元々矛盾を内包してしまう中では、その成果は十分に得られなかったものと考えられます。また、帰謬論証派は相手の立論の誤謬を正していくための否定のみによる論証であり、積極的には勝義諦が何かを十分に示せるものではなかったのも確かであります。

 さて、では唯識思想は、いかにして中観思想における世俗諦と勝義諦をある程度、結合させる作業を行ったのかについて、唯識思想の中核をなす教説である「三性説」・「三無性説」について考えて参りましょう。
 「三性説」とは、この世における事象・存在のあり方について三形態に分けて示すことですが、それは、「遍(へん)計(げ)所(しょ)執(しゅう)性 (しょう)」・「依(え)他(た)起(き)性(しょう)」・「円(えん)成(じょう)実(じっ)性(しょう)」であります。

 「遍計所執性」とは、「あまねく計(はか)らったところのものに執着してしまうあり方」のことですが、つまり、認識する側(能取・主観・主体)と認識の対象の側(所取・客観・客体)とにおいて、思惟・思考による言説概念化によって虚妄分別したそれぞれを、実在するものとして、執着してしまっているということであります。

 「依他起性」とは、「他に依って起こっているというあり方」のことですが、他に依って起こるとは、いわゆる「縁起」のことであります。「AによってBがあり、BによってAがある。」という縁起によってのみ仮構されての成り立ちがあるということです。

 もちろん、認識する側(能取・主観・主体)と認識の対象の側(所取・客観・客体)とにおいて、識が働くことになりますが、それは両者の相互依存によって生じている、つまり「所取によって能取があり、能取によって所取がある。」ということであります。もちろん、それは、「十二処(六根・眼耳鼻舌身意と六境・色声香味触法)」と「五蘊(色受想行識)」の実体否定であり、縁起関係によってのみ、あらゆるものは仮に成り立っていると言えるだけのことに過ぎない、つまり「仮有・仮設」ということであります。

 そして、「円成実性」とは、依他起性としての縁起的あり方、つまり、能取と所取という縁起的な分別のあり方を理解して、遍計所執性により虚妄分別したものへの執着もなくなって、縁起においての存在のあり方は、その縁起におけるあり方においてのみ言えるだけのことで、本来は無分別であり、そのあるがままは、あるがままであるという、諸法実相・真如のことを示しているのであります。

 そして、次に三性説についての各否定的側面として三無性説、「相無自性」・「生無自性」・「勝義無自性」が示され、空の論理についても補完して説明されます。

 遍計所執性に対応する否定として「相無自性」が説かれます。この場合の「相」は、遍計所執した事物についてのあり方、特質というものですが、私たちは、事物を認識する時に、「それは、このようなあり方、特質がある」とします。しかし、そのあり方、特質も、例えば、温かい・冷たい、大きい・小さい、堅い・軟らかい、強い・弱いなどの性質についても、ただ縁起関係において分別して言えているだけのものであって、ただそれだけのことに過ぎないとして、無自性を示すのであります。

 依他起性に対応する否定としての「生無自性」とは、縁起「AによってBがあり、BによってAがある。」としての仮においてA、Bが生じているだけのものであり、Aそのもの、Bそのもの自体で生じるものとは言えないとして無自性を示すのであります。

 円成実性に対応する否定としての「勝義無自性」とは、いかなるあり方、特質としても決定されるものはない、勝義そのもの、円成実性としてのあるがままはあるがままという真如・実相にもとらわれることができる自性が無いという無自性・無相を示したのであります。

 三無性は、三性における「有」にとらわれてしまうことを避けるために、その三性それぞれも「空」・「無自性」であるということを示して、「有る」にとらわれず、また「無い」にとらわれない「非有非無」のありよう、中道について改めて示し、更に「空と不空」にもとらわれないために説かれたものであると考えられます。

 空性とは、もちろん実体がない、無自性ということですが、全てのものが空であり戯論を離れて、言語表現・言説の一切を認めないということに終始してしまうものとなってしまえば、「何も考えないのでよいのだ」として、無思・無念・無想が第一だと陥ってしまったり、善も悪もない、正も誤(邪)もない、世間における道徳的・倫理的行為実践も意味がない、のみならず、宗教、仏教そのものも意味がない、四法印も四諦も意味がない、「何も無いのだ」として空を扱ってしまう懸念を、何としても避けるために、唯識思想においても空に対して、空にとらわれてしまい過ぎないように論理補完が成されたのであると考えます。

 中論・「観行品」(第十三・第八偈・第九偈)『もしも非空である何ものかが存在するとするならば、空である何ものか〔が存在することになるであろう〕。〔しかし〕非空である何ものも存在しない。どうして、空であるものが存在するであろうか。』、『空であること(空性)とはすべての見解の超越であると、もろもろの勝者(仏)によって説かれた。しかるに、およそ、空性という見解をいだく人々〔がおり〕、かれらは癒し難い人々であると、〔もろもろの勝者は〕語った。』

 中論・「観如来品」(第二十二・第十一偈)『「空である」と語られるべきではない。〔そうでなければ〕、「不空である」、「両者(空且つ不空)である」、また「両者(空且つ不空)ではない」ということになるであろう。しかし、〔これらは〕想定(仮に説く)のために説かれるにすぎない。』

 中論・「観四諦品」(第二十四・第十四偈)『およそ、空であることが妥当するものには、一切が妥当する。およそ、空〔であること〕が妥当しないものには、一切が妥当しない。』

 とありますように、「空と不空」との「縁起」関係をも最後には超越していくことを観じなければならないということであります。

 それは、般若思想・中観思想が示した空性が、その空性としての意義を保ちつつも、その空性が意図している目的である空用も理解し、空の世俗的なあり方としての空義をもしっかりと考えなければならないということであります。

 つまり、空性とは、一切の存在・事象を実体として見るとらわれを離れ、主客二分による分別は虚妄であることを知り、無分別を理解して、また、縁起関係にあるあらゆる相対・対立をも超えた「不二絶対」を明らかに知見していくことが重要であり、空性はいわゆる「無分別の智・不二の智」のことであります。

 その空性の「無分別の智・不二の智」により、分別・戯論・煩悩が止滅される働き、分別から無分別、不二絶対の平等へと至るための働きが空用であり、空義とは、「無分別の智・不二の智」によって、最終的には、世俗諦も勝義諦も分別が無くなり、世俗諦から勝義諦へ、勝義諦から世俗諦へ、自在にその両方の真理を行き来できるようになって、諸法の実相を明らかに観ていくことであります。諸法の実相とは、真如ということでもあります。

 戯論寂滅が、何も考えない、何も思わないことだと、あまりにとらわれ過ぎてしまう危惧も避けていくことが必要なのであります。

 空を理解し、無分別、言語道断、戯論寂滅の重要性について鑑みるのは、実に大切なことであります。しかし、そこで留まってしまっては本当の意味での深遠なる真実義を見極めたとは言えず、では次に、いかにして世俗においても智慧を働かしていくべきであるのかということが、更に問われてくるところなのであります。

 唯識……「ただ識のみ」として、まず『こころ』があるとして認めるところから始まる唯識思想は、真理を外界に求めるのではなく、「こころ」の内に真理を求め、己の「こころ」が全ての事象・存在を作り出しているに過ぎないのであるとして、その「こころ」による識別作用・思惟分別作用というものが虚妄分別を起こし、その分別したものにとらわれて迷いの中に陥ってしまっているのだという原因に気づき、その上で、三性説・三無性説を理解し、迷い・煩悩の「こころ」のありようを真に悟り、次に智慧を働かせていけるように「こころ」を迷いから智慧のありようへと転換させていくという「転(てん)識(じき)得(とく)智(ち)」が大切になるということであります。

 そして、最終的には、「ただ識がある」として、唯識思想展開の中心である「識」についても当然に「空」であり、「不空」であり、そのとらわれからも離れていかなければならないのであります。

 唯識の識については、基本として「八識」について説明されますが、ここでは改めての説明は行いません。詳しくは、施本「仏教・~一枚の紙から考える~」をご参照頂ければと考えております。

 根本煩悩、小随煩悩・中随煩悩・大随煩悩に惑わされることなく、十一善を行い、五道・六波羅蜜を実践して、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)、意識、末(ま)那(な)識(しき)・阿(あ)頼(ら)耶(や)識(しき)のありようを智慧へと転換させていかなければならないのであります。

前五識……成(じょう)所(しょ)作(さ)智(ち)

 所作を成ずる智慧で、大・中・小の随煩悩に惑わされることが無くなり、心・口・意の三業が清浄に保たれるようになったこと。

意識……妙(みょう)観(かん)察智(さっち)

 根本煩悩である貪・瞋・痴・慢・疑・悪見を滅し、この世のあらゆることに対しての虚妄分別が無くなり、実相のそのままを観じ察することができるようになったこと。

末那識……平(びょう)等(どう)性(しょう)智(ち)

 自我に執着している自我意識、我執を無くし、我見・我痴・我慢・我愛の四つの根本煩悩を滅し、我空を理解して、主客の分裂が無くなり、自他分別も無くなって、法空も理解し、この世のあらゆるものを自他平等・不二平等に識できるようになったこと。

阿頼耶識……大(だい)円(えん)鏡(きょう)智(ち)

 あらゆるもののあるがままの真理が、あるがままにそのままくっきりと、あたかも鏡のように識に映るようになり、そこではもはや何らの分別も生じることなく、無分別の智、不二の智が働くように識が調った境地。まるで湖面(識)に何ら波風(虚妄分別・煩悩)が立たず、澄み切った鏡の如くに、その湖面の上に往来し現れる(識される)あらゆる全てのあるがままが、そのまま(無分別・不二・平等に)くっきりと映し出されているようなイメージであると考えます。
 
 また、唯識思想は、大きく有相唯識派と無相唯識派の二派に分かれていくことになりました。

 その二派は、「能取・主観・主体と所取・客観・客体」の「二取」における「形象・相」が実在するのか、実在しないのかという点において激しい議論が展開されていきます。

 基本的には、無相唯識派の流れが主流でありましたが、論理学の発展とともに、真理を示すための論理的言語・言葉を重視する立場が、その論理的言語・言葉を理解するためには、自他共通の「二取」における「形象・相」がなければならないという主張において、有相を説き、有相唯識派が登場したのであります。

 また、唯識思想の発展過程においては、三性説の「依他起性」のあり方について、あくまでも「有」として解した唯識派と、「依他起性」のあり方については「有るとは言えない」として解した中観派とが激しく対立した時期があったものの、唯識思想の説く空の論理については中観派からも歩み寄る傾向もみられ、「縁起」をめぐっての解釈についても両思想において徐々に醸成されていく中、中観派と唯識派の両理論についての学びを統合して進めていく「瑜伽行中観派」が誕生していくのであります。

 とにかく、空を正しく観じていくためには、やはり「縁起」の理解が重要であり、「縁起を見る者は、法(真理)を見る。法(真理)を見る者は、縁起を見る。」と言われますように、「縁起」の理解を確実に及ぼしていくことが唯識思想においても求められるものであると考えます。

・・第六章・上ここまで。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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施本「仏教・空の理解」
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