川口英俊の晴耕雨読ブログ

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第五章 中観思想の理解・下

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第五章 中観思想の理解・下

 さて、では次に中論が示そうとしている目指すべきところのことについての偈を挙げておきます。

 中論・「観法品」(第十八・第五偈)『業と煩悩とが滅すれば、解脱が〔ある〕。業と煩悩とは、分析的思考(分別)から〔起こる〕。それら〔分析的思考〕は、戯論(想定された論議)から〔起こる〕。しかし、戯論は空性(空であること)において滅せられる。』、中論・「観法品」(第十八・第七偈)『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。』、中論・「観法品」(第十八・第九偈)『他に縁って〔知るの〕ではなく(みずからさとるのであり)、寂静であり、もろもろの戯論によって戯論されることがなく、分析的思考を離れ、多義(ものが異なっている)でないこと、これが、真実〔ということ〕の特質(相)である。』

 さて、ここまで非常に難しい話ばかりが続いてきまして、少々うんざりされていらっしゃる方もいるかもしれません。そこで、中観思想について簡単に分かりやすくを心掛けて少し私なりに述べてみたいと思います。
 では、「苦しい・苦しみ」ということについて、考えて参りましょう。

 まず、「縁起」関係についてですが、『苦しいによって楽しいがあり、楽しいによって苦しいがある。』ということであります。

 どちらか一方だけの世界では、苦しいも楽しいももちろん成り立ちません。つまり、苦しいだけの世界ならば、何が苦しいかはわからないですし、楽しいだけの世界ならば、何が楽しいかはわからないということです。

 更には、楽しいも苦しいも、人に応じて千差万別の認識・判断・価値基準があり、実は何が苦しみで、何が楽しみかなど、完全に誰も定義することなどできないのであります。もしも、仮に定義できたとするならば、それはもう「楽しい」でも「苦しい」でもなくなるのであります。

 全人類が「楽しい」ということであるならば、それはもう「楽しい」でも「苦しい」でもどちらでもない、もちろん、全人類が「苦しい」という場合でも同様なのです。

 実は、苦しみも楽しみも何がどうであるのかとは、本当は決められないものであり、わからないものでしかないのであります。

 このことを「空」と言ったり、「仮」と言ったり、「幻」と言ったりするわけであります。苦しみも楽しみも、本来はそのような実体が無いためで、わからない、決められないのは当然のことなのであります。

 厳密には、苦しいという実体が「有る・無い」、楽しいという実体が「有る・無い」とも言えないのです。

 でもモノが体に当たったり、病気になったりしたら痛いし、つらいし、しんどいし、苦しいじゃないか、と反論したくなるでしょう。

 それを単に私もモノも病気も無我・無自性・空性・幻だからと言って果たして納得できるでしょうか。なかなか納得はできないと思います。それはもちろん、私も同じです。

 では、仏教を学んだ者と、そうでない者とでの違いは何かと言いますと、それは、苦しみの「捉え方」であります。

 苦しみは実体が無いから、それは単に勘違いであるとは言いません。ただ、苦しみはその実体が『有る』というわけではないので、その苦しみに、こだわらないし、とらわれないし、執着はしないということです。

 つまり、苦しみの捉え方において、ずっと永遠に苦しみという実体が何か『有る』というわけでなく、苦しみの相対である楽しみのありよう次第においても、その捉え方もコロコロ変わるものに過ぎないということです。

 勝手に自分がこれは苦しみ、これは楽しみと、かたよって、とらわれて執着することから離れるということです。そうすると、今、苦しいとしてとらわれていることも、やがては変わっていくことも当然ありますし、苦しみのとらわれ、執着から離れるための努力をしたり頑張ったりもしていけるということです。

 いつまでも苦しいという何か実体が有るとして悲観したり絶望したりするのは、大きな間違いであるということです。

 苦しみもいつか乗り越えていけるものだ、楽しいへとも変わるものだということも、単に心の持ちよう次第のところが非常に大きいのであります。

 ですから苦しいも楽しいもどちらにも、かたよらない、とらわれない、こだわらない、しがみつかない心を調えていくことが誠に肝要になるのであります。

 苦しみも楽しみも表裏一体、勝手に苦しみ、楽しみ、表だ、裏だと決めつけて、かたより、とらわれ、こだわり、しがみついているのは、迷いの心が産み出した虚妄分別にすぎないことを縁起によって理解していかなければなりません。

 縁起を理解し、無分別をわきまえた上で、では次にどのようにして迷いの心を静め、悩み、苦しみを乗り越えていくために智慧を開発させていくべきであるのかが重要になります。

 さて、中観思想につきましては、更にこれからの章においても随時、補完していくことと致します。

・・第五章・下ここまで。

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