川口英俊の晴耕雨読ブログ

施本「仏教・空の理解」・第四章

施本「仏教・空の理解」
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四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について

 次に、世俗諦《せぞくたい》・勝義諦《しょうぎたい》(第一義諦)の二諦について考えて参りたいと思います。

 まずこのことについて、お釈迦様が悟りを開かれた時の出来事から述べてみようと思います。

 悟りを開かれたお釈迦様は、独覚したその悟りについて、涅槃の境地を静かに喜び、このまま更に深い禅定に入って、もはや再び生まれ現れることのないように、この迷い・苦しみの世界から完全に解脱しようと考えられたと伝えられています。

 また、この涅槃へと至る道について、例え説いたとしても、誰にも理解してもらえないのではないかとも考えられて、教えを説くことを躊躇したと言われています。

 このことは、つまり一切知見者たるお釈迦様は、あらゆる全てを見通す智慧をお持ちになったため、未来の一切についても予見された上で、人間が人間である以上、思惟分別の迷い・苦しみから逃れることは到底不可能であるとも考えられたかもしれません。

 それは、現在の人類社会における、戦争・紛争・テロ・犯罪などの争い事、地球環境破壊・資源問題、地球温暖化問題、生命倫理問題など、様々な相対矛盾の問題に悩み苦しんでいるありようを考えた時、ある程度うなずけることではないだろうかとも思えます。

 しかし、このようにお釈迦様が教えを説かれることを躊躇していた時、梵天《ぼんてん》(ブラフマー・帝釈天《たいしゃくてん》と同等の仏教護法善神)が現れ、「そのすばらしい涅槃へと至る道を衆生にも大いに説き、迷い・苦しみから衆生を救済して下さい」と、梵天から三度も勧められたと伝えられています。このことは「梵天勧請《ぼんてんかんじょう》」と言われています。

 梵天からの勧めを受けて、いよいよお釈迦様は、涅槃へと至る道を衆生に説くことを決意されます。とにかく自らが説くことで、涅槃へと至れる衆生が、少しでも多く増えてくれれば幸いであると考えられたのではないだろうかと思われます。

 お釈迦様は、まず、かつての修行仲間だった五人の僧たちに、「四諦・八正道」の教えを説かれました。その者たちは、お釈迦様について、苦行を止めてしまった者として厳しく批判していましたが、いつしかその真理に触れた五人の僧たちは、お釈迦様への軽蔑の心が既に無くなり、その説法を聞く内に次々に悟りを開いていきました。このことを「初転法輪《しょてんぽうりん》」と言い、いよいよ仏教が始まった瞬間でもありました。

 このエピソードを鑑みるに、仏教の真理の理解は実に難解であり、お釈迦様は当初、世俗の中において到底説くことができないと考えられたのではないかと思われます。

 つまり、仏教の真理は思惟分別を超えたものとして、本当は言葉・言語では表すことができないが、説くためには、世俗における思惟分別をもって説かざるを得ないため、それでは到底理解できないかもしれないと、お釈迦様は危惧されたのではないかと思われます。

 それでも何とかお説きになられた時には、無分別の立場から、やむをえないものの、世間の分別の立場へと後退させて、その真理をギリギリ限界まで言葉などの表現にてお説きになられたということであると考えられます。

 このことは、中論における「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』とありますように、仏教の真理を説くのであれば、まずは世俗の言葉などの表現手法を用いて説くしかなく、ある程度、世俗の思惟分別・言葉・言語にも頼らざるをえないということであります。

 そのため、八正道における「正しい」の内容も、無分別なる仏教の真理から最大限勘案された上で、分別としての「正しい」道をできる限り明らかにされたものだと理解しておけばよいのではないかと思います。

 ゆえに、真理から派生されたものとして、その学び・理解・実践を私たちは誤りなきように行っていかなければならないのであります。

 さて、次に「世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦」の具体的内容、その差異について考えなければなりません。つまり、何が「世俗諦」で、何が「勝義諦」かということであります。

 中論においては、何をもっとも根本なものとして説かれているのかと言いますと、もしかすると「空」と思われるかもしれませんが、その前提となる「縁起」が、実はもっとも重要であると考えられています。この「縁起」につきまして、この場合の二諦を考えてみましょう。

 全てのものは、そのものの固定した実体があるわけではなく(諸法無我)、また、無いわけでもないが、そのありようは、そのもの自体では、生じることも、滅することもない、また常住でもなく、断滅でもなく、移ろい変わりゆくものである(諸行無常)ということについて、「縁起」をもって、その無自性、空性を中論は示したわけであります。

 世俗諦における「縁起」の解釈としましては、いわゆる施本前二作で私が縁起の解釈として使わせて頂いておりましたもので、「佛の道」・第八章・因縁生起においては、「この世における一切の現象・存在は、全て因(直接原因)と縁(間接原因・条件)の二つの原因が、それぞれ関わり合って構成されているということ」と述べさせて頂きましたように、この縁起のありようについて、全ての存在は、因縁によって生起するものとして、普通に自然的存在においてのあり方における時間的・空間的に生起する因果関係におけるものとして、実は世俗諦における「縁起」の扱いでしかありませんでした。

 また、前作における唯識論においても、三性の一つ「依他起性《えたきしょう》」について、「この世のすべての存在が、他の何かを縁(因縁生起)として、はじめて成立しているということ」と述べさせて頂きましたが、この依他起性も、世俗諦の「縁起」とほぼ同様として扱いました。

 一方で、中論が説く「縁起」というものは、勝義諦としてのものと扱われ、それは、今回の施本で取り上げさせて頂きましたように、存在のありようについて、「相互依存的相関関係、相依性《そうえしょう》」で成り立っているものとして、そのありようについては、「非有非無なるもの、不生不滅なるもの、不常不断なるもの、不一不異なるもの、不来不去なるもの」として、非常に言語表現を超えるものに近い扱いで表されていると考えます。

 私自身、中論の理解を進める前に、これらの「有るということもなければ、無いということもない」、「生じるということもなければ、滅するということもない」というような仏典中における表現に触れることはあったものの、正直、真意は何を述べたいのか容易には理解しがたいものでありました。

 浅学非才、未熟者の身ながら、仏教を学ぶ者であっても、そのような感じでありましたので、なおさらにも普通の世間においての思考、思慮、思惟において理解するのは、難解さを極めるようにも思われます。それがゆえに、勝義諦とされるわけでもあります。

 次の中論の最初の二偈である「帰敬偈」が、まさに縁起の勝義諦としてのありようを示しています。

 「観因縁品」(第一・第一偈、第二偈)『〔何ものも〕滅することなく(不滅)、〔何ものも〕生ずることなく(不生)、〔何ものも〕断滅ではなく(不断)、〔何ものも〕常住ではなく(不常)、〔何ものも〕同一であることなく(不一義)、〔何ものも〕異なっていることなく(不異義)、〔何ものも〕来ることなく(不来)、〔何ものも〕去ることのない(不去)〔ような〕、』、『〔また〕戯論(想定された論議)が寂滅しており、吉祥である(めでたい)、そのような縁起を説示された、正しく覚った者(ブッダ)に、もろもろの説法者のなかで最もすぐれた人として、私は敬礼する。』

 とありますように、言葉の表現による戯論《けろん》(形而上学的議論)が滅された、そのすばらしい「縁起」を説かれたお釈迦様を尊敬して讃えた偈となっております。

 さて、形而上学的議論について、ここで思い出される方がいらっしゃるかもしれませんが、施本「佛の道」・第十八章・「無記」がありました。

 ・・「お釈迦様は、弟子たちから色々と出される質問の中で、特に形而上学的な問題については判断を示さず、答えを出さずに沈黙を守ることで、仏教の実践から外れてしまう無用な論争の弊害を避けられることがありました。」・・として、「十無記」・「毒矢の例え」についてご紹介させて頂きました。

 また、前回施本におけます「唯識論」におきましても、末那識《まなしき》・阿頼耶識《あらやしき》における「非善非悪」についての「無記」を扱いました。

 「十無記」も「非善非悪の無記」も、いわゆる二元論・四元論を超えたものとして、「そう」、「そうでない」の二元論でも、また「そうでもあって、そうでもない」、「そうでもなく、そうでもないものでもない」を加えた四元論でも答えることが不可能ということで、つまり、戯論を無くしたところと両者解すことができます。

 いわゆる今回取り上げております中論の「八不」と「無記」とは、同義のものと考えることができると思います。

 ただ、「非善非悪の無記」については、より正確に述べるとするならば、「非善非悪、非非善非非悪の無記」とする方が良いようにも思います。また、同様に「非有非無の中道」についても、「非有非無、非非有非非無」として、このことを考えますと、「無記」と同義として解しても差し支えないようにも思えます。

 また、「非有非無」は中道として、「非非有非非無」は空として表したとすれば、実は、前作の第五章・「一枚の紙から・②而二不二《ににふに》」の論考において、紙の厚さの部分のことも「縁起空」であるとして、最後に扱いましたが、そのことが「非非有非非無の空」として解すれば、よりその理解が及ぶものではないだろうかと考えております。

 もちろん、このことは、空・仮・中の同義からやや離れて、空をより高次の扱いに上げてしまうため、少し問題があるようにも思います。また、「非非有非非無」を不空としてしまっても、空・不空と分別したものとなってしまうため、これもやや問題が生じてしまいます。

 このことは、中論・「観行品」(第十三・第八偈)『もしも非空である何ものかが存在するとするならば、空である何ものか〔が存在することになるであろう〕。〔しかし〕非空である何ものも存在しない。どうして、空であるものが存在するであろうか。』、中論・「観如来品」(第二十二・第十一偈)『「空である」と語られるべきではない。〔そうでなければ〕、「不空である」、「両者(空且つ不空)である」、また「両者(空且つ不空)ではない」ということになるであろう。しかし、〔これらは〕想定(仮に説く)のために説かれるにすぎない。』とありますように、「空」と「非空(不空)」を分別し相対してしまうことも、中論では最終的に退けているのであります。

 同様に、中論・「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』、中論・「観法品」(第十八・第八偈)『一切は真実(そのようにある)である」、「一切は真実ではない」、「一切は真実であって且つ真実ではない」、「一切は真実であるのではなく且つ真実ではないのでもない」。これが、もろもろの仏の教説である。』、とあるように、「有、無、非有、非無、非非有、非非無」として、そこで戯論が完全に滅されることになるわけであります。

 さて、このように「八不」、「無記」によって、戯論(形而上学的議論)を滅したところの「縁起」を中論では、勝義諦(第一義諦)として示したのであります。

 また、空・仮・中の三諦によって先にカテゴリー別に分けさせて頂きました様々な比喩表現も、自然的存在における因果関係のあり方における「縁起」と同様に、世俗諦として示しているものとしても良いのではないかとも思います。ただ、既に形而上学的議論に近くなるところのギリギリ限界での比喩表現であるため、普通で考えると矛盾しているように思われたりするものも中にはあるため、やはり理解することは難しいと言えるかもしれません。

 以上から、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦を理解した上で、中論・「観四諦品」(第二十四・第四十偈)『およそ、この縁起を見るものは、その人こそ、実に苦・集・滅・道(四聖諦)を見る。』として、真なる「四諦・八正道」の実践が、ここでようやく可能になるということであります。

 そして、中論・「観行品」(第十三・第八偈)『空であること(空性)とはすべての見解の超越であると、もろもろの勝者(仏)によって説かれた。しかるに、およそ、空性という見解をいだく人々〔がおり〕、かれらは癒し難い人々であると、〔もろもろの勝者は〕語った。』とありますように、「空性」についても、最後はとらわれて執着することなく、中論・「観四諦品」(第二十四・第十四偈)『およそ、空であることが妥当するものには、一切が妥当する。およそ、空〔であること〕が妥当しないものには、一切が妥当しない。』とありますように、「空」を正しく観ずることが大切になるのであります。

・・第五章に続く。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2008 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
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