川口英俊の晴耕雨読ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

世俗諦と勝義諦(第一義諦)

世俗諦と勝義諦(第一義諦)

さて、前回施本では、「無分別の分別」について、施本「仏教~一枚の紙から考える~」五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》において扱わせて頂きました。 三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》においては、
 ・・実は、このように私たちは、常に物事を両部に分けて認識・判断・理解するようにしています。いわゆる「分別《ふんべつ》の世界」の中で生きているということであります。 
 もちろん、この世において、私たちは何事にも理性・道徳・常識の分別が付かなければ、社会は大変なことになってしまいます。例えば、「これはやってよいこと、あれはやってはいけないこと」と分別していなかったとしたら、本能・感情が支配する世の中となり、無法地帯になってしまって、分別がある時と比べると、とんでもないことになるのは明白だからであります。
 社会生活を営む上では、当然に「分別」は大切で欠かせないものでありますが、これから述べていく仏教的な「分別」の考え方は、世間における分別の考えとは、全く別の次元の問題として扱います。
 ただ、世間における分別というものも、絶対的なものではなく、そういった分別にでさえも、私たちは囚われて執着してしまうと、悩み苦しむことがありますので、相当に気を付けて扱う必要はあります。・・

として、あえて世間における分別と仏教の分別・無分別を分けて考察致しました。

実はこのことについてはもう少し考察を進めなくてはいけません。どういうことかと言いますと、世間、人間界における分別には、本当に分別があると言えるのかどうかということであります。

つまり、以前に、やや虚無主義的傾向が強く、当時「無帰論」を扱ってしまい、中道的には問題が大いにあると反省しております内容ですが、「三災五濁」往生院だよりコラム 平成18年9月 彼岸号よりにおいて、

・・五濁とは、劫(こう)濁・煩悩(ぼんのう)濁・衆生(しゅじょう)濁・見(けん)濁・命(みょう)濁のことで、五濁は、人間の文明文化が進歩するにつれて増大していくとされています。
 劫濁とは、時代・世の中の濁りのことで、戦争・飢饉・疾病・環境汚染が増大していくこと、煩悩濁とは、人間の欲望から生じる煩悩によって起こる濁りのことで、特に三毒である貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)の増大で悪行・犯罪が多発横行していくこと、衆生濁とは、人間界・人類社会の濁りのことで、社会の苦しみが増大し、人間の資質・モラルが著しく低下していくこと、見濁とは、人間社会における思想の混乱による濁りのことで、誤った思想・先入観・偏見・差別が増大していくこと、命濁とは、衆生の生命の濁りのことで、命が次第に短くなっていくこと、生存・存在意義が低下していくことであります。
 もっとも、この世における人間の愚かさ・浅ましさ・卑俗さ・おぞましさは、何も今の時代に限ったことではなく、人間が誕生して以来、ずっと続いていることであり、程度の差はあったとしても、元々人間界とは欲望を持った人間による煩悩が渦巻いて、四苦八苦(四苦は生老病死、更に四つの苦である「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」が加わって八苦)し、煩悩による貪(とん)・瞋(しん)・痴(ち)の三毒に侵されている世界であり、人間という存在が完全になくなる、もしくは、全ての人間が仏教の教えの中における涅槃(煩悩が完全に無くなり、煩悩が慈悲に転化され、智慧・さとりが完成する境地)しない限りは、三災五濁からは到底逃れることはできないのであります。
 もちろん、「三災」・「五濁」も人間が存在する上で都合が悪く、危ういものであるために「災い」・「濁り」としているだけのことで、所詮はこの世のあらゆる事象が「無」に帰する中における程度の問題のことに過ぎず、受け入れてしかるべきものであります。
 いずれは無常の中、人類も滅亡し去るわけですが、現実世界においては、いまだ人間は存在しており、また、全ての人間が前述のように涅槃することは、ほぼあり得ないことも確かであります。つまりは、人類が滅亡するか、全ての人間が涅槃しない限りにおいては、「三災五濁」・「四苦八苦」から逃れることはできないわけであります。
 しかしながら、元々「三災五濁」に陥っているこの世界、日本社会においても、その度合いが深まっているとはいえども、それはただそれだけのことであり、煩悩を抱えて過ごす人間界における愚かさ・浅ましさ・卑俗さ・おぞましさについては、当然に致し方なきことで、「三災五濁」・「四苦八苦」のみならず、この世のあらゆる事象をあまねく受け入れて、その上で「己」はどうであるのかということを考えていかなければならないと思っています。
 つまりは、あらゆる世の中の事象は全て「己」次第のところに落ち着いていくことになり、「三災」も「五濁」も「四苦八苦」も、それらをどう捉えるかも「己」次第となるものであります。
 「己」次第の中、外部事象は外部事象として、「己」における欲得・煩悩から生じる愚かさ、浅ましさ、卑俗さ、おぞましさと真剣に向き合って、それらに負けないように、常に己自身に克てているのかどうかということが重要となり、そして、そのためにも「少欲知足」「報恩功徳」の実践、「謙虚さ・配慮・寛容性」を養っていくことが誠に大切であると考えています。・・

ということとの考察、つまり分別が到底あるとは言えない人間の愚かさの現実についても今一度、仏教の無分別と併せて考察を行わなければならないということであります。これは次の施本の執筆のためには絶対に避けて通れないところであると考えております。いわゆる「世俗諦と勝義諦(第一義諦)」についての扱いとなるところであります。

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、虚妄(こもう)、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、平等、真如、一如、諸法実相。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
スポンサーサイト

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。