川口英俊の晴耕雨読ブログ

「空・仮・中の三諦」における「仮」

「仮」

中論における「空・仮・中の三諦」における「仮」について、もちろん「非有非無」として、この世における存在は、有るとは言えないし、また無いとも言えないものであります。私たちは「仮」に表象・イメージという観念の世界で存在・物事を認識しているわけであります。決して存在・物事を正確に認識しているわけでありませんし、また正確に認識することは不可能なことでもあります。

もし、存在・物事を正確に認識するということであるならば、例えば物質であるならば、分子・原子・中性子・電子・陽子・素粒子、更には素粒子の生成・生滅に影響を与えているものまでも認識できたとするのならば、それで正確にその存在を認識したと言えますが、それは不可能なことであります・・

ですから、中論においては、この世における存在・物事は、「仮有、仮名(けみょう)、虚妄(こもう)、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、夢、蜃気楼」などとして表すのであります。

もちろん、それも分別における比喩に過ぎず、本当のところはやはり言葉では表現できないのであります。そのことだけでも理解できれば、虚妄分別に迷い苦しむことは愚かであるということが分かり、無明を打ち破って、「有る」として執着してしまう苦しみは無くなることでありましょう。

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、空、空性、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、虚妄(こもう)、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、夢、蜃気楼・・非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、平等、真如、一如、諸法実相。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
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