川口英俊の晴耕雨読ブログ

無記

さて、昨日に「無記」について触れましたが、実は形而上学的な問題としてお釈迦様が回答しなかった「無記」と、唯識論における非善非悪の「無記」の二つについて施本においては述べさせて頂いております。

施本「佛の道」・第十八章 無記
http://www.hide.vc/hotokenomichi18.html

十無記として、

一、世界は常住であるのか? 
二、世界は非常住であるのか?
三、世界は有限であるのか?
四、世界は無限であるのか?
五、霊魂と肉体は同一のものか?
六、霊魂と肉体は別々のものか?
七、如来は死後存在するのか?
八、如来は死後存在しないのか?
九、如来は死後存在しつつ非存在であるのか?
十、如来は死後存在するものでもなく非存在でもないのか?

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」・四、唯識論について
http://www.hide.vc/buddhism5p.html

末那識・阿頼耶識における非善非悪についての「無記」。

この両者の違いは何であるのかということについて、実はまだ詳しくは述べておりません。

ただ、私的には、同意と解釈しております。

つまりは、二元論・四元論を超えたものであるということであります。

「そう」、「そうでない」の二元論でも、また「そうでもあって、そうでもない」、「そうでもなく、そうでもないものでもない」を加えた四元論でも答えることが不可能ということであります。

唯識論における「無記」も、善、悪について二元論、四元論でも答えることができないところのものということであります。より正確に述べるとするならば、「非善非悪」であり、「非非善非非悪」ということであります。

そして、「非有非無」についても、中論・中観・中道においては最終的に「非非有非非無」として、もはや言葉では表現できないところのものとして、戯論が滅されるのであります。

ゆえに「無記」は、四元論も超えたところのものとして扱う点で、形而上学的な問題としての十無記と唯識論における無記は同意であると解しております。

誠に難しいですね・・

施本「佛の道」
施本「仏教~一枚の紙から考える~」
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