川口英俊の晴耕雨読ブログ

四、唯識論について・中・2

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・中・2

 その前に、唯識論においては、無分別が説かれるわけですが、ここで挙げられるのは、仏法の真理においての何が善か、何が不善かについて、唯識論において定義されている善についてであります。不善は煩悩による悪業となることで、本論では、わかりやすくするために、不善=悪として記述しております。

 ここで、善・悪は無分別だとして、早計に善悪関係ないとしてしまえば、もう仏法を学ぶ意味が全く無くなり、それは享楽主義・快楽主義、または悲観主義・虚無主義など極端な偏ったところに陥る可能性もありますので、中道からも外れてしまうため、非常に気をつけなければなりませんし、涅槃への道のりが遙か遠いものになってしまいます。

 実はここのところは、誠に注意しなければならないところなのであります。

 仏法の真理は、文字や教典では本当は表せないということなので、禅宗が特に重んじる不立文字《ふりゅうもんじ》・教外別伝《きょうげべつでん》・直指人心《じきしにんしん》ということなのでもあります。

 ですから仏教、本論においても扱っております唯識論における善・悪は、中道としての立場、何ら偏りの無い、何ら差別の無い、何ら囚われの無いところから、あくまでも苦しみ・迷いを無くすために便宜上、そのように分けているだけであり、もちろん私たちはしっかりと仏法の真理を学び、仏法を拠りどころとして、悪をなさず善を行なわなければなりません。

 また、このことに関わることは、「無分別の分別」として、第五章で扱っておりますので、そちらもご参照下さいませ。

十一善

信(縁起の理《ことわり》を理解して信じること・徳ある仏法僧の三宝を信じること・己に善を行なう力があることを信じること)・慚《ざん》(己の内なることの恥じについて反省すること)・愧《ぎ》(己の外なることの恥じについて反省すること)・無貧(むさぼらないこと)・無瞋(激しく怒らないこと)・無痴(仏法の真理を学び愚かさを無くすこと)・勤(善行につとめはげむこと)・安(安らかな心でいること)・不放逸(なまけないこと)・行捨(かたよらない・平等で素直な心でいること)・不害(害さないこと)。

 次に、私たちが苦しんでいる煩悩についてでありますが、大別すると「根本煩悩」・「小随煩悩」・「中随煩悩」・「大随煩悩」としてまとめられています。

根本煩悩

 まず、先に挙げさせて頂きました未那識における四つの煩悩である「我見・我痴・我慢・我愛」に、前五識・第六識における煩悩としての貪《とん》(むさぼり)・瞋《しん》(激しい怒り)・痴《ち》(愚かさ)・慢(高慢・傲慢)・疑(真理の理解を躊躇《ちゅうちょ》している。真理についての疑い)・悪見(真理に対して間違った見解・理解)。

 また、慢には、七つあるとして、詳しく述べていきますと、慢(自分より劣った者に対して、自分は優れていると慢心すること、自分と同等である者に対して、同等であると慢心すること)・過慢(自分と同等である者に対して、自分の方が優れていると思い高ぶり慢心し、自分より優れている者に対して、同等であるとあなどって慢心すること)・慢過慢(自分より優れている者に対して、自分の方が優れているとうぬぼれて慢心し、他を見下す慢心のこと)・我慢(自分に執着し、自分は一番だと自惚れる慢心のこと)・卑下《ひげ》慢(自分より優れている者に対して、自分は少ししか劣っていないと慢心すること)・増上《ぞうじょう》慢(自分はまだ悟りを得ていないのに、悟りを得たとおごりたかぶる慢心のこと)・邪慢(自分に徳がないのにも拘らず、あると思って、自分は偉いと誇る慢心のこと)。

 また、悪見についても、詳しくは五つあり、薩迦耶見《さつがやけん》(我見・我執・自己中心的なものの見方)、辺見(極端に固執したものの見方)、邪見(仏教の法理、特に因縁生起の法則などを否定するものの見方)、見取見(自分の見方が絶対的に正しいと執着したものの見方)、戒禁取見(仏法で定められた戒律を破り、間違った見解の戒律を正しいものとして固執したものの見方)。

小随煩悩

 忿《ふん》(いかりを出すこと)・恨(うらみ)・覆(自分の不利益なことを隠すこと)・悩(悶々《もんもん》と気に入らないことに悩むこと)・嫉《しつ》(嫉妬)・慳《けん》(物惜しみするケチなこと)・誑《おう》(自分の利益のために人をあざむくこと)・諂《てん》(自分の方に気を向けるためにだましへつらうこと)・害(害すること)・驕《きょう》(おごりたかぶること)。

中随煩悩

 無慚《むざん》(仏法に照らして自分の内なることにおける己の恥じについて反省することがないこと)・無愧《むぎ》(自分の外なることからにおける己の恥じについて反省することがないこと)。

大随煩悩

 掉挙《じょうこ》(心が昂ぶって平静さを失っていること)・昏沈《こんちん》(心が重く沈んでいること)・不信(真理を信じないこと)・懈怠《けたい》(おこたること)・放逸《ほういつ》(なまけること)・失念《しつねん》(大切なこと、真理についての気づきを忘れてしまうこと)・散乱(心がみだれて落ち着きがないこと)・不正知《ふしょうち》(真理を間違って知ること)。

 これらたくさん挙げました迷い苦しみの原因である煩悩を、仏法の真理の理解を行なっていきながら、しっかりと無くしていき、あるがままをあるがままに受け入れていく心、善行を自然に行なえる平安で清浄なる心を養い、もう煩悩に苦しむことの無い、安楽なる涅槃を目指して、日々精進努力をしていかなければなりません。

・・第四章・下・1に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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