川口英俊の晴耕雨読ブログ

四、唯識論について・上

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・上

 大乗仏教における認識体系論、または仏教の深層心理学論とも称される唯識論でありますが、もちろんその語の如く、この世はただ「識」別(作用がある)のみという意味であります。

 まず、その「識」の段階を基本的に八つに分けて考えます。

八識

前五識・・人間の感受・感覚としての五感、つまり眼・耳《に》・鼻・舌・身における眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(皮膚感覚・触覚など)。

意識・・自覚的意識のこと。前五識と合わせて六識とも言う。第六識。

末那識《まなしき》・・無意識の領域で、無意識ながらも自我に執着している自我意識のこと。末那識は、非善非悪の「無記《むき》」とされていますが、我に関する根本煩悩を抱えているために、障りを抱えて心を不浄にしてしまうものとして、「有覆無記」と表されます。第七識。

阿頼耶識《あらやしき》・・末那識の更に深層にある領域で、人間の根本・根底意識のこと。生命根源の「識」。第八識。阿頼耶識は、末那識と同様に「無記」なものですが、末那識のような障りは抱えていないため、区別されて「無覆無記」と言われます。なぜならば、阿頼耶識が善であれば、私たちは現行で悪業を行うことがないはずですし、逆に阿頼耶識が悪ならば、どんなに仏道に精進しても、涅槃に至れず、永久に煩悩を抱えて、苦しみ続けてしまうからであります。更には、阿頼耶識は善・悪の業の種子《しゅうじ》を受け入れる(薫習《くんじゅう》される)場所であるため、例えば阿頼耶識が悪であれば、善業の種子を受け入れなくなってしまい、いくら仏道を実践しても永久に煩悩を滅することができず、涅槃に至ることができなくなってしまうからでもあります。種子・薫習については、これからの内容の中で詳しく説明致します。

 そして、この第八識である阿頼耶識が、前五識、意識、末那識を生み出している根本として、自己とこの世の全ての存在について「識」している元のところとされています。

 更には、前五識、意識、末那識において「識」し、思考・想像・言行したものが、阿頼耶識に「種子《しゅうじ》」としてたくわえられ、その種子には二種類あり、名言《みょうごん》種子と業種子《ごっしゅうじ》があり、名言種子は、前五識・第六識・第七識において言葉を用いた概念・思考・想像によって薫習《くんじゅう》された種子のこと。善因善果・悪因悪果、無記《むき》因無記果(善でも悪でもない因果)を現行するため、因果が等しい流れであるので、このことを「等流習気《じっけ》」とも言います。

 業種子は、前五識・第六識・第七識・第八識の全てに影響を与える基となっている種子のことで、原因が善・悪であっても、阿頼耶識の中でたくわえられます。また、阿頼耶識においては、異なって熟されていくため、このことを「異熟習気《じっけ》」と表されます。

 また、種子には六つの条件があって、このことを「種子の六義」と言います。

種子の六義

刹那滅《せつなめつ》(刹那に生滅変化すること)・果倶有《かくう》(結果と同一に存在すること)・恒随転《ごうずいてん》(生滅が常に続くが性質はずっと保持していること)・性決定《しょうけつじょう》(善・悪・無記の因果性が決まること)・待衆縁《たいしゅうえん》(因縁によって現行すること)・引自乗《いんじか》(因果は同一の性質で引き継がれること)

 さて、種子が阿頼耶識にたくわえられていくことを「薫習《くんじゅう》」と言いますが、薫習とは、あたかも何かの香り(お香や香水など)が衣服に染み付くように、前五識、意識、末那識において「識」して思考・想像・言行したもの、更には思考・想像・言行を受けたことなどが、阿頼耶識にたくわえられるということであります。このことを「現行生種子《げんぎょうしょうしゅうじ》」と言います。

 そして、この阿頼耶識にたくわえられた色々な種子が、刹那滅しながら、また新たなる種子を生み出すことを「種子生種子《しゅうじしょうしゅうじ》」と言い、更には、種子が阿頼耶識から出て、意識、末那識・前五識に作用して外界の影響(因縁による影響)を受けて、また新たな種子が、阿頼耶識にそのまま薫習されるという繰り返しのことを「習気《じっけ》」と言い、更にまた、阿頼耶識における種子によって、この世における現象世界の事物が現れ出ることを「種子生現行《しゅうじしょうげんぎょう》」と言います。

 もちろん、この阿頼耶識でさえも、無常の例外ではなく、種子も刹那に生滅しつつ、薫習・習気され、異熟しています。その種子の集まりである阿頼耶識は、激流の如くに流れていると例えられています。

 更に、この阿頼耶識における種子の働きは、無始なる過去世からの輪廻、現世における現行、次の輪廻に深く影響しているとして説明されます。

 では、具体的に「識」によって作り出される、この世の現象世界の事物についての一連の働き、変化については、第一能変・第二能変・第三能変で示されます。

第一能変・・種子をたくわえる阿頼耶識において、あらゆる業(心《しん》・口《く》・意《い》の三業)の結果が、種子の様々な因縁によって、その結果が異なった形で熟し、新たな認識として生起して現行していくこと。このことを異熟《いじゅく》と言います。例えば、悪業を積み重ねて、その種子を阿頼耶識にたくわえても、その後に善業を重ねて、その善業の種子が阿頼耶識にたくわえられていけば、その因縁によっては、悪業による種子を浄化させて、先の悪業の結果も変わって熟していき、新たな認識の生起、現行をもたらすということです。この第一能変は、仏教における悪をなさず善を行ないなさいという善行奨励の理由として、輪廻についての説明でも理論的に補完されているところであると考えられます。また、先にも述べてありますように、阿頼耶識そのものは、善でも悪でもない「無記《むき》」なるものであります。

第二能変・・未那識における考え・思考のこと。思量《しりょう》とも言われる。この思量では、無意識においても常に自我意識をもたらし、自己執着(我執)して、特に四つの我についての根本煩悩にさいなまれている認識のこと。我見(自己は固定した実体としての存在があるとして、固執していること)、我痴(諸行無常・諸法無我などの仏法の真理を知らない愚かなこと)、我慢(自己について慢心していること)、我愛(自己に愛着していること)。もちろん、未那識は阿頼耶識によって強く影響を受けています。

第三能変・・前五識・第六意識における認識作用。了別《りょうべつ》と言う。眼・耳・鼻・舌・身・意によって、それぞれ対象である色・声・香・味・触・法を認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のこと。ただし、意識は、前五識とはやや異なり、前五識の情報を受けて、すべての事物(現在・過去・未来を含めて)について認識・判断するものとして区別されています。もちろん、阿頼耶識は、前五識・第六意識に大きく影響しています。

・・第四章・中に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2008 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.
スポンサーサイト

PageTop