川口英俊の晴耕雨読ブログ

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一枚の紙から・仏教の基本法理の理解

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」


一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中

 あくまでも私たちが「紙」と呼称しているものは、単に「一過性の現象のこと」を指して言っているだけのことで、分子・原子・中性子・素粒子の単位では、瞬間、瞬間に生滅変化しているものであります。

 それは、もちろん、仏教用語で言うところの因縁生起《いんねんしょうき》(因縁・縁起)、因(直接原因)と縁(間接原因・条件)の二つの原因が、それぞれ関わり合って構成されているものであり、この因縁生起に従って生滅変化を繰り返し続けていることを、仏教の中でも特に大切な法理である「諸行無常《しょぎょうむじょう》」と言うのであります。

 読者の皆様方が、現在見ておられるこの施本の紙、ご用意して頂きました白紙の紙も、瞬間、瞬間で分子・原子・中性子・素粒子の単位で生滅変化を繰り返しているものであり、私たちは仮に、今のその存在における現象を「紙」と単に呼称しているに過ぎず、もっと仏教的に厳密に言えば、変化し続けているものには瞬間でさえも、そのものが「ある」とは言えないのであり、そのことを仏教では「諸法無我《しょほうむが》」の法理と言うわけであります。

 このように、私たちが言葉で普段使っている存在・現象への「名称」というものは、ほんの間、ただ私たちが仮に名付けているだけのものに過ぎないのであります。まずはこのことをしっかりと理解しておかなければなりません。

 前回施本「佛の道」では、私たち人間存在のことについて、色《しき》・受・想・行・識の五蘊《ごうん》で仮に和合しているものであるとして、その五蘊のいずれもが瞬間に変化し続けているため、どれが自分で、どれが自分のものだとすることも不可能であり、固定した実体としての「我」が成り立たないことを述べさせて頂きました。

 もちろん、全て私たちが呼称を与えている存在も、実は固定した実体としての「我」は同様に「無い」のであります。

 この「諸行無常」・「諸法無我」を理解していないと、私たちはその名称のものを「あるもの」として「我」を妄想してしまい、そこにほしいという渇愛《かつあい》、もっとほしいという執着が生じてしまって、そのものが少しでも変化したり、無くなり、滅したりすると、そのことを受け入れず、認めずに、それがそのまま迷い、苦しみになってしまうわけであります。

 このようにあらゆる存在、みずからの存在にでさえも「我」を妄想してしまって、「我執」を抱えてしまうことが、私たちの苦しみの原因であります。一切の存在は不安定であるために、「我執」、「妄想」によって「不満」が生じてしまっています。「妄執」・「我執」・「愛執」など、色々な執着をもたらす妄想のことを総称して「煩悩《ぼんのう》」と言いますが、このようにこの世におけるあらゆる存在・現象が不安定なことについて、諸行無常・諸法無我の真理を理解できないままに、悩み煩ってしまい、苦しむことを仏教では「一切皆苦《いっさいかいく》」という法理として表すのであります。

・・第二章、次に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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