川口英俊の晴耕雨読ブログ

諸法無我の補足

施本・「佛の道」・全文
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諸法無我の補足

さて、少し書道修練で思い出しますが、教室に通い始めた頃、普通にコンビニでも市販されている一枚一円ほどの半紙で練習していた時に、先生から、その紙では裏のザラザラの部分で書きなさいと指導を受けて、当初はかなりそのことに抵抗がありました。

なぜならこれまでは、半紙はツルツルの部分が表で、そこに書くことを当たり前と考えていたからであります。つまり、半紙に書くのは、ツルツルの部分が表でザラザラの部分は裏ということが当然で正しいと思い込んでいたからであります。しかし、先生は、その半紙では、確かにツルツルの表で書くことで、綺麗に見せることができるが、筆が滑りやすいことと、文字を見るだけでは正確な筆遣いの技量がなかなか推し量れないということで、練習、正確な指導のためにも裏のザラザラの部分で書きなさいという趣旨でそう言われたのであります。

しばらくして、練習・清書用共に、一枚五円ほどする半紙を常用することになりましたが、その時にようやく先の半紙でザラザラの裏で書いていたことの抵抗が無くなったのであります。その半紙の表はまさに先の半紙の裏と同じような感じでの書き具合となり、また、作品として条幅などに書く半切なども同様の書き具合だったからであります。先生の指導は理にかなったことだったのかと気づいたのであります。

さて、この話題で何が言いたいのかといいますと、「正しい」という思い込みであります。表と裏も単に思い込みで、こちらが表で正しい、こちらが裏で正しいとしてしまって固執していれば、上達が少し遅れたかもしれないということです。

このように、普段私たちが「正しい」としていることが、施本「佛の道」の中でも何度も出て参りましたフレーズ「主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素」が大きく関係してしまっているということであります。

つまり、仏教的に説明しますと、「諸法無我」において、諸行無常なる中、固定した実体としての「我」はどこにも無いのに、我に囚われてしまって「我執」してしまえば、主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素が顔を出して、表裏も勝手に世間の常識、自分の主観・偏見・都合でこちらが表で正しい、こちらが裏で正しいとして執着し、妄執して迷い苦しんでしまうということであります。本当はたった一枚の紙について、表も裏も私たちが勝手に恣意的に判断しているだけということでもあります。そういった妄想はしっかりと捨てなければならないということでもあります。

こういう何気ない日常のことでも、「諸法無我」の理解が一つできるのでもありますね。
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