川口英俊の晴耕雨読ブログ

施本「佛の道」・第十五章 少欲知足

施本「佛の道」・第十五章 少欲知足

 少欲知足《しょうよくちそく》とは、欲を少なくして、足るべきを知るということであります。

 無常・無我・苦なる真理の前では、具体的に執着、所有、価値は成り立たないことについて先に述べてきました。

 どんなに欲を出して、あれがほしい、これがほしい、もっとほしいと求めても、結局は満足できずに不満の中、苦しみ続けることになってしまうことは、ある程度ご理解して頂けたと思います。

 では満足して、幸せに生きるためにはどうすればいいのかと言いますと、その答えが、この少欲知足なのであります。

 私たちの幸福・満足というものを簡単に「楽」とするならば、苦しみが減っていくことが、楽というものであって、苦しみが無くなって、それから楽というものが何か新しく出てくるというわけではありません。始めから大いに抱えてしまっている苦しみが、少しずつ取り除かれていくことが楽なのであります。言い換えると苦しみの度合いが和らいでいくことが楽なのであります。

 つまり、完全な楽とは、苦しみが完全に無くなったということであり、それで完全な幸福、涅槃に至ったと言えるわけであります。

 その点で、世間における苦しみを紛らわすための快楽や享楽の楽とは全く違う意味合いでありますので気をつけなければなりません。

 少欲知足、自分はここまでで足りるのだということをしっかりと知って、欲を少なくして、欲を抑えること、これ以上の苦しみを生み出さないように、「ほしい」という渇愛、「もっとほしい」という執着を抑えることによって、そこでようやくに満足ができるということであります。ますます膨れ上がろうとしていた苦しみも、そこでやっと止まるわけであります。

 また、生きていく上で必要以上に貪るということは、他に大いに迷惑を掛けているということでもあります。今の人類は便利さ、豊かさのために必要以上に贅沢をし、資源を貪ってしまっています。人間の内における奪い合いの争いもそのために起きていますし、他の生き物たちも人間の強欲のために大いに殺され、絶滅を迎えるものも出てきてしまっています。資源の貪りによる自然環境破壊、地球温暖化などによって生態系にも狂いが生じ、直接的にも間接的にも他に大きな迷惑を掛け過ぎている状況であります。

 少欲知足によって、ようやく他に迷惑を掛けないようにもなるわけであり、少欲知足で生きること、ただそれだけでもまさに善行為と言えるのであります。何も難しいことはありません。誰でも簡単に、誰の助けも借りることなく、今すぐにでもできる仏法の実践、その一つが少欲知足の善行為なのであります。

 お釈迦様がお亡くなりになる直前、まだまだ修行未熟で悲しむ弟子たちを前に、最後の言葉を残されました。その言葉は涅槃経・遺教経などに記されていますが、その一つに、涅槃へと至るためには少欲知足の実践が大切であるということも説かれました。遺教経における八大人覚《はちだいにんがく》(少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戯論)の中でもこの少欲知足が示されています。

 更に、涅槃を目指すために必要な教えにつきましては、五根五力(信・精進・念・定・慧)、七覚支《しちかくし》(念・択法《ちゃくほう》・精進・喜・軽安・定・捨)としてもまとめられています。それぞれの内容は、本論の他のところにおいてもおおよそ触れてありますので、内容が重なるため、ここで改めての詳しい説明は控えておきます。

 そして、最後にお釈迦様は、仏法を拠りどころとして、諸行の無常なることをしっかりと悟って、涅槃へ向けて怠ることなく精進努力を行いなさいとおっしゃられたのであります。

施本「佛の道」・各章
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