川口英俊の晴耕雨読ブログ

施本「佛の道」・第十一章 無所有

施本「佛の道」・第十一章 無所有

 次に、無執着とほとんど内容は一緒となりますが、無所有についてであります。

 「本来無一物」と言われますように、はじめから所有できるものは何も無いということでありますが、なかなかこれも無明の闇の中では理解されないことであります。「私のもの」、「あなたのもの」、「私の所有」、「あなたの所有」と日常においても頻繁に使う言葉であり、法律の条文の中にも所有権という言葉が平然とありますので、当然に仕方ありません。

 しかし、仏教の無常・無我・苦を学んだ者は、所有という概念は成り立たない、苦しみの元となることに気がつかなければならないのであります。

 所有という概念は、そのものが変わらずにある、変わらない自分がいる、自分の支配下にある、自分の思い通りに、意のままにある、期待通り、希望通りにあるということで成り立っています。

 では、本当にそうであると言えるでしょうか。たとえ何かを得れたしても、無常なる中で、そのものも自分も、刻々と変化してゆきます。もしも得れたということが仮にあったとしてもほんの一瞬のことで、物質であれば、その変化が目に見えようが、目に見えまいが、色が変わろうが、変わるまいが、因縁においてもう次の瞬間には原子・分子・中性子・素粒子の単位でめまぐるしくどんどん変化していっています。のみならず得たと思った自分の心も身体も、次の瞬間にはどんどん因縁によって変化しています。

 ですから、得たものも、得たと思った自分も次の瞬間にはもう既になく、得る、所有するということは始めから全く成り立たないことであり、変わらない自分というものがあって、変わらない対象があってこそ、所有というものは成り立ちますが、無常の中、変わらない現象・存在は実は何もないのであります。

 それでも得たのだ、所有しているのだとするためには、もはや無理矢理に妄想して得れる、所有できる対象が「ある」、得れる、所有できる自分が「ある」というように幻想を生み出し続けるしかありません。「思い通りにある、期待通りにある、希望通りにある」と、しかし、結局、それは無常という現実の前では全くそうではないのであります。

 そして、得た、所有したと錯覚すると、なぜ思い通りに、期待・希望通りにならないのだと悩み煩い、不満を抱えることとなり、それがそのまま苦しみになるのであります。

 また、「得た」、「所有できた」と錯覚した己自身の身体自体も、思い通り、期待・希望通りにならず、刻々と死へ向かっているのに、何をこの世において得れるもの、所有できるものがあろうかということであります。死んでしまえば、もはや「得た」、「所有できた」という妄想・幻想のものですらも、捨て去っていかなければならないのであります。

 このように執着と合わせて、得た・有したという妄執、永遠・永久不滅なのだという幻想への妄執、ものがある、自分があるという妄執は無くしていかなければなりません。

 世間においては、これらの妄執のために、貪り、怒り、嫉妬、高慢、傲慢、エゴなどの悪感情を抱えてしまって、争い事、犯罪、奪い合い、殺し合いの戦争までも起こってしまい、一向にそれらがなくならないのも、それらの妄執・悪感情のせいなのであります。

 しっかりと「無所有」を自覚して、己を滅ぼさぬように、他を傷つけないように、他に迷惑を掛けないように気をつけなければならないのであります。

施本「佛の道」・各章
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