川口英俊の晴耕雨読ブログ

施本「佛の道」・第十章 無執着

施本「佛の道」・第十章 無執着

 仏教の実践の上で、何度も何度も出てくる言葉の一つが、まずこの「無執着」であります。 執着は一般には「しゅうちゃく」と言いますが、仏教用語としては「しゅうじゃく」と呼ぶ場合がより正確で、「執著」とも表されることもあります。

 諸行無常において、あらゆるものが移ろい変わりゆく中では、何もしがみつけるものはないにも拘わらず、いつまでも何かにしがみつこうと必至になる、諸法無我において、固定した実体としての「我」はどこにも見当たらないのに、いつまでも「我」を探し求め、しがみつこうと必至になる、そのしがみつこうとすることを止めなさいという意味であります。

 十二縁起においては、「愛(渇愛)によって取(執着)が生じる。取(執着)によって有(苦しみの生存・所有という妄執)が生じる」とあるように、執着は苦しみをもたらす大きな原因であり、苦しみを抱えないためにも、無くさなければならないものとしての実践が、この無執着であります。

 ここでよく挙げる例として、「シャボン玉」があります。シャボン玉は誠に綺麗ですが、できたとしても何秒ももたずに、淡く脆くもすぐに壊れてしまう泡沫です。皆さんはこのことをよく知っているため、シャボン玉に対して、ほしいという渇愛、もっとほしいという執着もあまり生じないことでしょう。ですから、壊れて消えてなくなっても、嘆き、悲しみ、後悔などの苦しみは非常に少なく、皆無に近いのであります。

 このように誰もが、あっと言う間に変化し壊れゆくと知っているものには、それほど執着も生じないのであります。

 では、一方で、己の身体はどうでしょうか、己の子供、孫はどうでしょうか、己の財産はどうでしょうか、皆さんいつまでもほしい、いつまでも存在してほしいと渇愛し、もっとほしい、しがみつこうと執着が生じてしまいます。

 でも、無常なる中、シャボン玉と己の身体・子供・財産に何の違いがあるのでしょうか。別に生滅変化の中にあることに違いはなく、ただ因縁に従って、その現象も瞬間瞬間、刻々と変化していることに全く変わりはなく、止まるものは何一つもないのであります。それが渇愛・執着が生じることで、とたんに「止まってくれ」、「去らないでくれ」、「壊れないでくれ」となってしまい、当然に何も止まるもの、去らないもの、壊れないものはないため、そのまま止まらないこと、去っていくこと、壊れることが苦しみになってしまうのであります。

 また、恋人・伴侶・子供・家族・親族・友人・会社・社会・国家・世界に対して、逆に自分の受け入れたくないこと、認めたくないことなどについては、嫌悪して、期待通り、希望通りにそれらが変わってほしいという渇愛、もっと早く変わってほしいと思う執着もあるでしょう。しかし、無常は因縁に従って変化していくため、因縁を超えて妄想した渇愛・執着を抱えてしまっては、なかなか思うようにはならない、期待通り、理想通りにはならないので、そのことで苦しむこともあるわけであります。

 もちろん、これは中道としての無常の見方を行っていないために起こることでもあります。自身の主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素によっても、渇愛・執着の度合い、苦しみの度合いが大きく変わっていくことになっていきます。中道としての無常の見方を調えて、何ら偏りの無い、何ら差別の無い、何ら囚われの無い立場から全ての現象と存在を理解していけば、自然に渇愛・執着は無くなり、苦しみも無くなるのであります。全ての存在と現象はシャボン玉と何ら変わらないのであり、何ら執着するに値しないのであります。

 しかし、なかなか「無常だ」、「無我だ」、「苦だ」と述べても容易には認めないほど堅固に「執着の砦」は守られているのが世間の現状であります。それがゆえに、いつまでも悪い感情に支配され、不満、貪り、怒り、高慢、怠惰、嫉妬、怨み、蔑《さげす》み、恐怖、不安、心配、憂い、後悔、昏沈、掉挙などを抱えて、絶えず苦しみの劫火の中で焼かれ続けて生きてしまっています。平穏が常に破られて、争い、犯罪、戦争が絶えないのもこのためなのであります。

 人間は、財産(お金・土地・モノ)、恋人、伴侶、家族、親族、仲間、見栄、名誉、地位、権力など様々なものに対して、あまりに渇愛・執着が生じてしまうと、次第にそれらに束縛されて、やがてはそれらがその人間を支配してしまうまでに蝕み続け、様々な苦しみが付き従って離れないようになってしまいます。そのようなまま、あまりに離れないようにまでがんじがらめにしてしまうと、やがて最後に不満・不安・心配・絶望・恐怖などの悪い感情を抱えて極限の苦しみの中で死を迎えることになるので注意が必要になります。

 無明の闇の中では、人間はこのようなことは全く考えようとはしませんし、考えさせないようにする思考が働いてしまっています。それほどに「執着の砦」は難攻不落なのであります。そのために、仏教では四法印・四聖諦の真理、八正道の実践によって、この「執着の砦」を徐々に攻め落としていき、無明の闇の中で抱えてしまっている煩悩・苦しみも、少しずつ無くしていかなければならないとしているのであります。

 無常も無我も苦も知らない間に、己を蝕んでしまっている様々なものに対しての渇愛・執着をできる限り無くしていくことが大切となります。

 妻がいても、何が妻なのか、夫がいても、何が夫なのか、子供がいても、何が子供なのか、自分が固執して離さなくしているものたちに固定した実体としての「我」はないのに、また、全ては移ろい変わりゆく中にあるのに、捉えようとしても何も捉えられないのに、まるで蜃気楼、幻想の影を追いかけているようなものであるにも拘わらず、私たちは、それらを「あるのだ」、「こうあるべきなのだ」、「変わるな」、「変われ」、「永遠に変わらないものだ」、「永久なのだ」と勝手に妄想でイメージしてしまい、必死になってそのイメージを追いかけ、追いかけ、追いかけ続けて、守ろうとし、やがては追いかけ続けること、守ろうとすることが生きる目的にまでなり、そのうちにくたびれ、老いゆき、死を迎えるまでもがき続けてしまうのであります。

 結果、妄想のイメージと現実の乖離《かいり》は著しく広がっているだけで、最後は己の身体でさえもしがみつけず、一生懸命に蜃気楼、幻想の影を追いかけ続けた行為・過程の全ては死という一瞬で無駄に脆くも崩れ去って終わるのであります。

 しがみつこうとすればするほどに、苦しみが増すだけなのに、更に必死になって身体も心も酷使を繰り返してゆく、あっと言う間に身体も心もボロボロになって病気になってしまって、自然な老病死に反して早死にしてしまう人も多くなっています。日本における自殺者の増加もその一つと言えるのではないでしょうか。無執着になれば、自殺するほどまでに心や身体が病に蝕まれることもないですのに・・

 とにかく、皮肉にも世間では喜んで手に入れようと必死になっている執着・束縛対象、無常・無我・苦を知らないうちに抱えてしまった苦しみの原因となる執着・束縛対象、財産(お金・土地・モノ)、恋人、伴侶、家族、親族、仲間、見栄、名誉、地位、権力などは、これからできる限りに無常・無我・苦をしっかりと念頭においた上で、その接し方、心構え、扱いについて気をつける、また、必要最低限以上におけるものは離していきながら、執着せずに苦しみを少しでも無くしていくことが望ましいのであります。いつまでも愚かに自ら好んで苦しみの原因を、何ももうこれ以上作る必要は全くありません。

 「執着の砦」を果敢に攻め滅ぼしていきましょう。百万の屈強な兵を繰り出すよりも己ただ一人、己の「執着の砦」の心に克つことで、苦しみを無くしていかなければならないのであります。

施本「佛の道」・各章
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