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川口英俊の晴耕雨読ブログ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」第七章「中観思想・唯識思想について」

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html

第七章「中観思想・唯識思想について」

 中観思想の基本的な論理は、「縁起・無自性・空の論理」、「空・仮・中の三諦」、「世俗諦と勝義諦の二諦」であります。

 中観思想における「縁起」は、主に先に述べさせて頂きました「論理的縁起」によって、あらゆることの「無自性・空」を示すものであります。

 「空・仮・中の三諦」とは、「観四諦品」(第二十四・第十八偈)『およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。』として、中観思想は、法有論者・実体論者の主張する論理の誤謬を批判していく中で、論理的縁起(「AによってBがあり、BによってAがある。」)にある(相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的なる)もの、それはただ、その縁起的関係においてのみ、Aだ、Bだと言えているだけのことで、何かAだ、Bだというような実体が、そもそもあるわけではない、つまり、それは「無自性・空性」であることと説き、Aだ、Bだと言うのは、言葉によって仮に設けられただけのもの(仮名・仮設・仮有)であって、すなわち、中道(非有非無、AだBだというものが、有るとも言えないし、全く何も無いということでもない)である、ということを明らかにしました。

 このことは、「法有」・「我」にとらわれた法有論者・実体論者に対してのみならず、「法無」・「虚無」・「無我」にとらわれてしまった論者、「空」を誤って解釈してしまっている「悪取空見者」に対しても、その誤謬を批判して、「空」の正しい理解を及ぼさせるためであり、「有」と「無」など、あらゆる思惟分別・虚妄分別における両辺を離れさせ、一切へのとらわれ、執着を無くさせるためでもあります。もちろん、最終的には「非有非無」についてのとらわれ、執着も認めるものでもないのでありますが、そのことにつきましては、後の章にて詳しく扱うことと致します。

 「世俗諦と勝義諦の二諦」につきましては、これまでの施本においても詳しく扱っておりますが、「世俗諦」とは「世俗における真理」のことであり、普通に生活している日常的な営みにおけることの真理、又は、概念・観念・言語活動において、厳密に考察されない限り、一応、一般的・習慣的には正しいと認められている真理のことであります。

 「勝義諦」とは、概念・観念・言語活動を超えた、言語道断で戯論が滅された仏教の目指す最高真理のことであります。

 「世俗諦」は、無明の闇、迷いの中にいる衆生たちにおいて顕現している世界における真理のことで、「勝義諦」は、覚者・如来の側において顕現している世界における真理のことであります。この二諦の区別をしっかりと理解しておかないと、大乗仏教の学びは遅々として進まなくなってしまいますので、誠に注意が必要となります。

 もちろん、中論の目指すところは、「勝義諦」であり、以下の偈がそのことを宣揚しています。

 中論・「観法品」(第十八・第五偈)『業と煩悩とが滅すれば、解脱が〔ある〕。業と煩悩とは、分析的思考(分別)から〔起こる〕。それら〔分析的思考〕は、戯論(想定された論議)から〔起こる〕。しかし、戯論は空性(空であること)において滅せられる。』、中論・「観法品」(第十八・第七偈)『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。』、中論・「観法品」(第十八・第九偈)『他に縁って〔知るの〕ではなく(みずからさとるのであり)、寂静であり、もろもろの戯論によって戯論されることがなく、分析的思考を離れ、多義(ものが異なっている)でないこと、これが、真実〔ということ〕の特質(相)である。』

 そして、中論では、「空」すらも実体的な何かというわけではなく、また、時空的縁起における因果関係についても、自性として原因・条件・結果が成り立たないことを示し、更には、論理的縁起関係が内包する相対矛盾・対立矛盾の様相もあぶり出して、論理的縁起関係すらも超えたところにおける「勝義の空」を示していこうとしました。

 空性とは、もちろん実体が無い、無自性ということですが、かたくなに全てのものが、空であり戯論を離れて、言語表現・言説の一切を認めないということに、ただ単に終始してしまうものとなってしまえば、「何も思わないでよいのだ、何も考えないのでよいのだ」として、無思・無念・無想、不思・不観が第一だと陥ってしまったり、善も悪もない、正も誤(邪)もない、世間における法律も規範・規則、社会ルールも、道徳的・倫理的行為実践も意味がない、のみならず、宗教、仏教そのものも意味がない、四法印も四諦も意味がない、「何も無いのだ」として、空を誤って「虚無」に扱ってしまう「悪取空」の懸念を、何としても避けてゆくことが大切となります。それは、般若思想・中観思想の要諦である「空」さえも、とらわれて執着しないように気をつけないといけないということであります。

 中観思想の目指すところは、戯論を離れて、最後には空性に対しての執着すらも超えて、真の勝義諦へと至らしめ、無分別の智慧をもって「勝義諦から世俗諦へ、世俗諦から勝義諦へ」と、自由自在の自利利他、慈悲の実践へと向かわせるための徹底した無執着の境地にあるわけですが、しかし、中観思想においては、無執着の境地からの世俗諦での智慧の働きについて具体的立論を控えたところもあったため、智慧の具体的働きとして「転識得智《てんじきとくち》」を説く唯識思想と統合して、空の理解を進める「瑜伽行中観派《ゆがぎょうちゅうがんは》」へと向かうこととなって参りました。

 しかし、何が智慧へと転換するものなのか、また、智慧の働きはいったいどこから生じるのか、などということにおいて、唯識思想では「阿頼耶識」などの「識別作用」を、一応は「有る」ものとして、智慧に変化する基体、智慧の働きが生じる基体として示す必要が生じてしまうなど、中観思想の側からの懸念として、「阿頼耶識」などの識を実体視してしまうこと、また「真如・諸法実相」というものを実体視して肯定的に扱うことは避けなければならないと、色々と論争があったことも確かであります。

 ただ、唯識思想においては、三性説「遍計所執性・依他起性・円成実性」と三無性説「相無自性・生無自性・勝義無自性」において空の理解を調えて、遍計所執性・依他起性・円成実性におけることでの実体化を避けて、空の論理補完がなされることにもなりました。

 「三性説」と「三無性説」につきましては、施本「仏教・空の理解から学ぶ」・第六章「唯識思想の理解」から抜粋しておきます。

・・

 唯識思想の中核をなす教説である、「三性説」・「三無性説」について考えて参りましょう。

 「三性説」とは、この世における事象・存在のあり方について三形態に分けて示すことですが、それは、「遍計所執性《へんげしょしゅうしょう》」・「依他起性《えたきしょう》」・「円成実性《えんじょうじっしょう》」であります。

 「遍計所執性」とは、「あまねく計らったところのものに執着してしまうあり方」のことですが、つまり、認識する側(能取・主観・主体)と認識の対象の側(所取・客観・客体)とにおいて、思惟・思考による言説概念化によって虚妄分別したそれぞれを、実在するものとして、執着してしまっているということであります。

 「依他起性」とは、「他に依って起こっているというあり方」のことですが、他に依って起こるとは、いわゆる「縁起」のことであります。「AによってBがあり、BによってAがある」という縁起によってのみ、AとBは仮構されての成り立ちがあるということです。

 もちろん、認識する側(能取・主観・主体)と認識の対象の側(所取・客観・客体)とにおいて、識が働くことになりますが、それは両者の相互依存によって生じている、つまり、「所取によって能取があり、能取によって所取がある」ということであります。もちろん、それは、「十二処(六根・眼耳鼻舌身意と六境・色声香味触法)」と「五蘊(色受想行識)」の実体否定であり、縁起関係によってのみ、あらゆるものは仮に成り立っていると言えるだけのことに過ぎない、つまり「仮有・仮設」ということであります。

 そして、「円成実性」とは、依他起性としての縁起的あり方、つまり、能取と所取という縁起的な分別のあり方を理解して、遍計所執性により虚妄分別したものへの執着もなくなって、縁起においての存在のあり方は、その縁起におけるあり方においてのみ言えるだけのことで、本来は無分別であり、そのあるがままは、あるがままであるという、諸法実相・真如のことを示しているのであります。

 そして、次に三性説についての各否定的側面としての三無性説、「相無自性」・「生無自性」・「勝義無自性」が示され、空の論理についても補完して説明されます。

 遍計所執性に対応する否定としては、「相無自性」が説かれます。この場合の「相」は、遍計所執した事物についてのあり方、特質というものですが、私たちは、事物を認識する時に、「それは、このようなあり方、特質がある」とします。しかし、そのあり方、特質も、例えば、温かい・冷たい、大きい・小さい、堅い・軟らかい、強い・弱いなどの性質についても、ただ、縁起関係において分別して言えているだけのものであって、仮の成り立ちにおいて言えていることに過ぎないとして、「相」の無自性を示すのであります。

 依他起性に対応する否定としての「生無自性」とは、縁起としての「AによってBがあり、BによってAがある」として、仮においてA、Bが生じているだけのものであり、Aそのもの、Bそのもの自体で生じるものとは言えないとして、無自性を示すのであります。

 円成実性に対応する否定としての「勝義無自性」とは、いかなるあり方、特質としても決定されるものはない、勝義そのもの、円成実性としてのあるがままは、あるがままという真如・実相にもとらわれることができる自性が無いという無自性・無相を示したのであります。

 三無性は、三性における「有」にとらわれてしまうことを避けるために、その三性それぞれも「空」・「無自性」であるということを示して、「有る」にとらわれず、また「無い」にとらわれない「非有非無」のありよう、中道について改めて示し、更に「空と不空」にもとらわれないためにも説かれたものであると考えられます。

・・

 以上のように、「空」の理解を誤りなく調えていくことが、唯識思想においても重要となりますが、しかし、一方で、般若思想はその後期において、空による実体否定からは、かけ離れてしまう肯定的な「真如」や「法性」などを説き出し始めることになってしまう面が強まり、また、唯識思想においても、「阿頼耶識」などの識や「真如・諸法実相」というものを肯定的に扱う傾向が強まってしまうこととなり、やがて大乗仏教は、ややもすれば実体視・肯定視してしまいかねないものを積極的に説き始めてゆく傾向が出始めて、中観思想の徹底した実体否定の空の論理さえも、もはや、その流れを止めることができず、やがて大乗仏教は、実体否定から実体肯定へと、その思想的背景が大きく転換してしまいかねないような事態となって参ります。

 このことは、第九章と第十三章において詳しく扱うことと致します。

 さて、唯識思想においての縁起としましては、「阿頼耶識縁起《あらやしきえんぎ》」があります。これは「業感縁起」を発展させ、阿頼耶識から全ての現象世界が現れているとして、そのありようを説明するものであります。次にそのことについて述べておきたいと思います。

 まず、人の心《しん》・口《く》・意《い》の三業、つまり、前五識(眼耳鼻舌身の色声香味触)・意識・末那識《まなしき》において、「識」して思考・想像・言行したもの、あるいは思考・想像・言行を受けたことなどが、阿頼耶識にある「種子《しゅうじ》」に、あたかも何かの香り(お香や香水など)が衣服に染み付くように記録されること(そのことを「薫習《くんじゅう》」と言う)を「現行薫種子《げんぎょうくんしゅうじ》」と言います。

 そして、次に、この阿頼耶識にたくわえられている色々な種子が、刹那滅《せつなめつ》しながら、また新たなる種子を生み出していくことを、「種子生種子《しゅうじしょうしゅうじ》」と言い、更には、その種子が、阿頼耶識から意識・末那識・前五識に作用して、外界の影響(因縁による影響)を受けて、また新たに阿頼耶識の種子へと薫習されるという繰り返しのことを「習気《じっけ》」と言い、そのような中で、阿頼耶識における種子によって、この世における現象世界の事物が様々に現れ出ることを「種子生現行《しゅうじしょうげんぎょう》」と言います。

 この「現行薫種子・種子生種子・種子生現行」の円環的因果関係を「阿頼耶識縁起」というわけであります。

 次に、唯識思想において扱います智慧についてですが、無明の闇の中において、様々に迷い・煩悩を生み出し、虚妄分別・妄念を起こしてしまう識のありようが、真如・諸法実相を如実に知見できてゆく悟りのありようへと変化(転依)していくことを「転識得智《てんじきとくち》」と言います。

 そのために、唯識思想では、大中小の随煩悩、根本煩悩を断滅させ、二障(煩悩障と所知障)を離れるために、六波羅蜜、慈悲・善行・徳行などの実践を進めていくこととなります。

前五識……成所作智《じょうしょさち》

 所作を成ずる智慧で、大・中・小の随煩悩に惑わされることが無くなり、心・口・意の三業が清浄に保たれるようになったこと。

意識……妙観察智《みょうかんさっち》

 根本煩悩である貪・瞋・痴・慢・疑・悪見を滅し、この世のあらゆることに対しての虚妄分別が無くなり、実相のそのままを観じ察することができるようになったこと。

末那識……平等性智《びょうどうしょうち》

 自我に執着している自我意識、つまり我執を無くし、我見・我痴・我慢・我愛の四つの根本煩悩を滅し、我空を理解して、主客の分裂が無くなり、自他分別も無くなって、法空も理解し、この世のあらゆるものを自他平等・不二平等に識できるようになったこと。

阿頼耶識……大円鏡智《だいえんきょうち》

 あらゆるもののあるがままの真理が、あるがままにそのままくっきりと、あたかも鏡のように識に映るようになり、そこではもはや、何らの分別も生じることなく、無分別の智、不二平等の智が働くように識が調った境地。まるで湖面(識)に何ら波風(虚妄分別・煩悩)が立たず、澄み切った鏡の如くに、その湖面の上に往来し現れる(識される)あらゆる全てのあるがままが、そのまま(無分別・不二・平等に)くっきりと映し出されているようなイメージであると考えます。

 このように、識のありようを智慧へと転換させるわけですが、では、阿頼耶識から迷いの世界も悟りの世界も現出するとするならば、いったい阿頼耶識というものは、そもそも清浄であるのか、それとも不浄なのかという議論が起こってしまい、清浄か不浄か、それとも混合なのかとして解釈に混乱が生じました。

 そのような中で、阿頼耶識を非善非悪の「無覆無記《むぶくむき》」として、清浄でも不浄でもないものとして、一応は仮説されるものの、非善非悪でもないものから、どうして善行・悪行が現出するのかという疑問も、そこで生じました。

 それはもちろん、無意識の領域ではあっても、自我に執着している自我意識である第七識「末那識」が、我に関する根本煩悩を抱えているために、心を不浄にしてしまうのだとして説明されます。そのため、その根本煩悩をしっかりと断滅させることが、唯識思想にとっては重要なことになるわけであります。

 また、阿頼耶識から、更に次の識を立てて、第九識として阿摩羅識《あまらしき》(無垢識・清浄識・真識・無相識・法性識・仏性真識・実際識・法身識・自性清浄識)を根本識として説明されることもあります。

 やがて、この阿摩羅識が、真如、如来蔵とも呼ばれるようになることから、阿摩羅識から全ての世界が現出しているということを「真如縁起」・「如来蔵縁起」と言うようにもなります。

 この阿摩羅識から発展していったと考えられる如来蔵思想については、第九章にて詳しく扱うことと致しますが、いわゆる阿摩羅識というものは、無明によっての妄執・煩悩に汚されたものではなく、清浄ではあるものの、さりとて如来の悟りの智慧が備わった状態にあるわけではないとして説明されます。

 しかし、果たしてそのような識を認めるのか認めないのかは、あくまでも仮説的なものであり、実体視することも非常に難しく、また、概念的な域を抜けるものでもなく、これはもちろん如来蔵の扱いの難しさにも通じてくるところであります。

 ただ、この阿摩羅識が無垢識と言われていることから鑑みますと、イメージ的には赤ん坊の識のありように近いようにも思えます。赤ん坊の識のありようは、分別の世界における執着、妄念・妄執からは離れており、無垢清浄でありますが、さりとて、如来の悟りの智慧が備わっている状態と言えるものではないからであります。

 もちろん、あくまでも「識」として、存在論的・実体論的に捉えられるようなものでない点は、やはり十分な注意が必要となります。

 また、この阿摩羅識の清浄なるありように、如来の悟りの智慧を修めて、そこから各識を智慧のありようへと転換させていくことが目指されることになるものと考えますが、このあたりのことにつきましては、後の如来蔵思想にて詳しく扱うことと致します。

 次に、「大乗起信論」における「アーラヤ識」について考えて参ります。

 大乗起信論のアーラヤ識のありようは、「真妄和合」するもの、覚(悟り・清浄)と不覚(迷い・汚濁)の二義の面を兼ね備えるものとして扱われますが、それはもともと無明によって煩悩に汚されたものでもなく、また、如来の悟りの智慧の状態にあるわけでもない、いまだそのどちらとも決定されていないものとしての「中性なる一心」を仮に立てた上で、衆生の現実は、無始以来の無明により「不覚」の状態にあり、その無明を打ち破って、妄執・妄念を止滅させ、悟りの智慧の状態が現れることを「覚」とするわけであります。

 また、その「覚」については、「始覚」と「本覚」とに分けられます。無明の無始以来の「不覚」に対して、悟りの智慧を開発し、「覚」の状態が始まることを「始覚」と言い、「本覚」は、もともと衆生の一心は清浄なる「覚」であるものの、無明によってやむなくに「不覚」状態となってしまっているということを示しますが、いずれにしても「始覚」と「本覚」は異なるものではなく、ただ、「覚」について、世俗の迷いの世界から見れば「始覚」と言え、如来の悟りの世界から見れば「本覚」と言えるという、単なる見方の違いであると考えます。

 しかしながら、この「本覚」が後々に誤って捉えられてしまうことにもなるため、非常に注意しなければなりません。「始覚」と「本覚」についての問題点につきましては、後の章にて扱うことと致します。

 さて、ここで大乗起信論における薫習について少しだけまとめておきたいと思います。

無明薫習・・無始なる過去世からの無明の薫習のこと。真如に薫習して、その薫習によって妄心が生じること。

妄心薫習・・無明薫習により生じた妄心が、また無明に薫習して、不了《ふりょう》(不完全)の種子を増やすこととなり、その不了の種子から妄境界(迷いの世界)が現われ出ること。

妄境界薫習・・妄心を薫習して、妄境界(迷いの世界)・虚妄分別の世界において、更に悪業を生み出してしまい、煩悩を抱えて苦しんでしまうこと。

浄法薫習・・真如薫習と妄心薫習の二つがあり、真如薫習は、迷い・苦しみの中で、何とかそこから逃れたいと真如を求めて発心し、仏道を実践し、涅槃を目指して精進努力を始める心が、真如に薫習していくこと。また、この場合の妄心薫習とは、真如を求める妄心(無明に対しての厭心)が、更に真如に薫習し、無明・煩悩を滅し始めて、涅槃へと向かうように調っていくこと。この薫習のために、凡夫の心は「真妄和合」なるもので、本来真如の法が備わっていることが根拠とされます。

 次に、迷いを離れるということについての簡単な例えを挙げておきます。

 夢(無明・虚妄分別・妄念)の中では、それが夢(無明・虚妄分別・妄念)であるとは分からないのですが、目覚める(悟り・真如・諸法実相)ことによって、それは夢(虚妄分別・妄念)だったと分かった時、夢(虚妄分別・妄念)はもはや終わって、夢の中(無明の中で迷い苦しんでいたこと)のことは「空」であり、実体の無いものであったと気づけば、目覚めた者は、もはや再び夢の世界(迷いの世界)へは戻らないということであります。

 次に、有名な「蛇縄麻《だじょうま》の喩」では、ある人(無明の迷いの中にある者)が、薄暗い闇の中に落ちている縄を見て、蛇だと思って(遍計所執性・妄執・虚妄分別)、驚き恐怖してしまうが、それは蛇に見えるが、実際は縄であると知っている者(覚者)から、それは蛇ではなく、縄であると教えられて、蛇に似た縄であると知り(遍計所執性を離れる)、更に、もっと詳しくその縄が何であるのかを思慮深く観察していくと、ただ麻(縄と言っているものの本質)が、一本一本編まれたものであって、更にその麻も色々な縁起(依他起性)によってこそ、その存在のありようが成り立っているのだと知れば、縄も麻も実体として執着できるものではなく、「空」であって、縁起によって仮に、縄だ、麻だと分別してしまって言っているだけのことに過ぎず、本来的には縁起的成り立ち(依他起性)であって、実体的に捉えられるものではない、無分別なるそのままのありようを知る(円成実性)ということであります。

 最終的には、唯識思想における「識」も、実体として存在するものではなく、認識主体・認識対象・認識作用も実体としてあるわけではない、「空」であることについては、しっかりと理解しておかなければならないと考えます。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕
著作権は川口英俊に帰属しています。
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一、はじめに
二、仏教基本法理の理解
三、時間的縁起・空間的縁起について
四、論理的縁起について
五、般若思想について
六、即非の論理について
七、中観思想・唯識思想について
八、華厳思想について
九、仏性思想・如来蔵思想について
十、相対から絶対へ
十一、絶対的絶対について
十二、確かなる慈悲の実践について
十三、現代仏教の抱える課題について
十四、最後に

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
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施本「佛の道」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

島村大心先生の
「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・2004年7月31日]

「現代仏教学を再生するためのホームページ」
URL: http://www.h7.dion.ne.jp/~sdaisin/

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施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」第六章「即非の論理について」

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第六章「即非の論理について」

 般若教典の一つである「金剛般若経」における代表的な表現として、「Aは非Aにして、ゆえにAといわれる」・「Aは非Aであり、それによってまさにAである」、いわゆる「即非の論理」についての補足であります。

 改めまして「即非の論理」を「論理的縁起」の観点から考察しますと、「A」というものは、概念・思惟分別によって言説・言葉・名前で「A」と名付けたと即時に、「A」と「Aでないもの(非A)」が分別されてしまっているということであり、すなわち、論理的縁起関係としての「Aによって非Aがあり、非AによってAがある」として、「非A」によってこそ、「A」は「A」と言え、「A」でありうるということであります。

 つまり、「私」というものは、「私」としたと同時に、「私でないもの(非私)」と論理的縁起関係において、分別して言えているだけに過ぎないということで、もちろん、「A」も「非A」も、「私」も「非私」もそれぞれに固定した実体が無く、無自性であり、空であって、当然にあらゆるものについても、あくまでも「○」と「非○」の論理的縁起関係で、「仮」にそう言えているだけに過ぎないということであります。

 それは、何かを概念・観念・言説・言葉・名前で「○」と表した瞬時に、その「非○」も同時に想定されており、その「非○」によって「○」と仮に言えているだけに過ぎないのであるということを、「即非の論理」は示しているわけであります。

 同じように般若心経における「色即是空 空即是色」についても、「○」を、実体が無い「空」ということで「非○」として、「○即是非○ 非○即是○」として、「即非の論理」と同様な事態を表していると言えるのではないかと考えます。

 とにかく、思惟分別してしまって、言説・言葉など言語活動においてあらゆる名前を付けているものについても、ただこの論理的縁起関係でのみ言えているだけに過ぎないということであり、「即非の論理」というものは、思惟分別は虚妄であって、何にもとらわれて執着してしまってはいけないということを示し、無分別の智慧へと至らしめるために説かれたものではないかと思われます。

 更には、例えば世俗では、「○」とは何らも関係性がないと考えられているものについても「非○」に当然に含まれており、「○によって非○があり、非○によって○がある」として理解する中においては、「関係の無いものは無い」として、あらゆるものは「論理的縁起関係」において、あまねく表すことができるということでもあります。

 もちろん、「論理的縁起関係」において、両者は「仮」に言えているだけであり、どちらも「無自性」・「空」であることは理解しておかなければなりません。

 また、どちらも「無自性」・「空」であるということは、つまり「A」=「非A」として、全ての存在は何らの差別の無い事態であって、「全ては無自性・空として無分別なる平等である」ということが理解されるようになるのでもあります。

 「即非の論理」は、ややもすると否定的側面が強いため、誤って虚無的に捉えられる可能性もありますが、般若思想における「無自性」・「空」の要諦を端的に示すものであり、その理解を誤りのないように調えることが大切であると考えます。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕
著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2009 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.


一、はじめに
二、仏教基本法理の理解
三、時間的縁起・空間的縁起について
四、論理的縁起について
五、般若思想について
六、即非の論理について
七、中観思想・唯識思想について
八、華厳思想について
九、仏性思想・如来蔵思想について
十、相対から絶対へ
十一、絶対的絶対について
十二、確かなる慈悲の実践について
十三、現代仏教の抱える課題について
十四、最後に

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

島村大心先生の
「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・2004年7月31日]

「現代仏教学を再生するためのホームページ」
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施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」第五章「般若思想について」

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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第五章「般若思想について」

 般若思想は「一切皆空」・「諸法皆空」・「五蘊皆空」として、あらゆるものは「空」であると説く思想であります。

 般若思想につきましては、前回施本においても詳しく扱いましたが、部派仏教時代、説一切有部など当時に台頭した実体論者・法有論者を批判するために起こった「大乗仏教運動」の思想的中核であり、それは、多くの部派仏教勢力が掲げた「法有」を見直させて、「法空」へと至らしめるために徹底的に展開された実体否定の作業でありました。

 そのため、あらゆるものについて、「空」であるとして、「これには実体がない、あれにも実体がない」として、完全なる実体の否定を目指したわけであります。

 その実体否定には、もちろん、これまでに考察して参りました時間的・空間的縁起、更には論理的縁起の理解は欠かせないものであります。あらゆる事象・存在は「縁起」によって、仮に設けられた成り立ちにて言えているだけに過ぎず、自性として、不変的・固定的に独立・孤立して成り立っているものは何も見あたらないということで、「実体が無い」という「無自性」・「空」を理解しなければならないということであります。

 しかし、そのためになされた徹底した否定作業は、ややもすると「何もない」としての虚無主義や悲観主義に陥ってしまう懸念もありました。

 もちろん、それは大きな誤解であり、あくまでも「実体」が「有る」としているものについて、とらわれて、しがみついて、こだわれる、執着できるような、そんな「実体は無い」と言うことを強調するために否定辞が多く用いられただけのことであります。

 般若思想の目指すところは、思惟分別・言語活動における、かたより、こだわり、とらわれ、執着を離すために展開された徹底した実体否定の作業を通じて、最終的には言説・戯論を超えた、「般若波羅蜜の智慧」のありようを限界まで示していくものですが、もちろん、般若心経の中では、その「智慧も無い」と智慧の実体視も否定するところもあり、何が智慧であるのかを否定の論理だけで十分に示すことは、現実には相当に難しかったものであったと考えられます。

 そこで、更に実体の否定について、否定辞の羅列に留まることなく、論理的縁起の観点から強くアプローチを進める「中観思想《ちゅうがんしそう》」が登場してくるのであります。

 般若思想の示した否定の徹底は、いわゆる言語道断、戯論寂滅へと至り、不二・無分別を扱うものでもありますが、ここで少し有名な維摩経(不可思議解脱経)における、文殊菩薩《もんじゅぼさつ》と維摩居士《ゆいまこじ》との「不二法門」におけるやりとりについて押さえておきたいと思います。

 「不二法門」とは、維摩居士の病気(衆生病むがゆえに我病む)のお見舞いに集まった菩薩たちに対して、維摩居士が、「菩薩が不二法門に入るとはどういうことか?」と提起した問いにおいて、菩薩たちは、次々に「不二の法門とは・・」と答えます。

 それらの答えは、対立するものには、それぞれ実体が無く、無自性であり、空であるとして、分別したいずれにもとらわれてはいけないとして、分別したものは不二であると説明していくわけですが、やがて菩薩たちの回答の最後に、文殊菩薩が「全てのものにおいては、言葉も無く、説くことも無く、示すことも無く、識《し》ることも無い。諸々の問答(思惟分別の議論・戯論)を離れている。これが不二法門に入るということである」と答えた後に、次は維摩居士に対して、「さて、集まった菩薩たちは、不二法門について答えました。では、あなたはどう答えますか?」と文殊菩薩が問うと、維摩居士は答えずに「沈黙」してしまいました。

 その様子を見た文殊菩薩が「素晴らしい、それこそが真に文字も言葉も無い、まさに不二法門に入るということです」として、礼賛したのであります。

 そして、このことは「維摩の一黙、響き雷の如し」と褒め称えられ、そしてこの問答にて、その場にいた並みいる五千もの菩薩たちは、「無生法忍《むしょうぼうにん》」の境地に至ったということであります。「無生法忍」とは、簡単に述べますと「不生不滅」の空の真理に達したということであります。

 しかし、もしも、この問答でいきなり「沈黙」だけがあったとしても、その「沈黙」が「維摩の一黙」ほどの深い意味を含まないのは明白であります。

 それは、問答に参加した菩薩たちが、これでもか、これでもか、と「不二法門」を言葉で明らかにしていき、そして、もう回答が出尽くした感の中、文殊菩薩の回答があって、いよいよ、「ここぞ」と言う時にこその「維摩の沈黙」であったため、大いに意義を持てたわけであります。

 「単なる沈黙では無い、沈黙」、これこそが重要であり、単なる「言語道断」・「無分別」・「不二」・「無念無想」・「不思不観」であってはいけないと言うことでもあります。

 この「単なる沈黙では無い、沈黙」とは、般若思想においても同様で、実体の否定は、「単なる否定では無い、否定」ということでもあります。

 また、「不二而二《ふににに》 二而不二《ににふに》」とありますように、確かに「不二・無分別なる空」であるとしても、「二・分別」における仮説・仮構されたありようを完全に無視すると言うことではなく、その仮説・仮構のありようについても、しっかりと理解しておかなければならないということです。

 このことは、以前の施本においても「薬と毒」において述べさせて頂きました。

 例えば、薬と毒があって、同じ瓶にそれぞれが別々に入っているとしまして、もしもどちらにもラベルを貼っていなかった場合、当然に毒だと知らずに毒の方を飲んでしまえば、死んでしまうわけです。

 もちろん、薬と毒は、人間が間違って識別しないために、それぞれラベルで分けたのですが、ただ、その薬も毒も、それぞれの一方の側にとらわれて、執着はできないということです。

 あくまでも「薬によって毒があり、毒によって薬がある」ということですが、つまり、人間の恣意的価値判断において仮に分けただけのものであって、本当はそれが薬か毒かなどは、それぞれ実体視して言えるものではなく、「空」・「仮」であります。

 もしも、薬の方にとらわれて執着してしまえば、薬だと安心して、いつの間にか大量に服用したり、副作用がきつい薬を、薬だ薬だ、効くのだ効くのだと、投与し続ければ、病気とは関係のないことで死んでしまうこともあるわけです。

 また、毒というものが、逆に薬となっているものもあれば、他の生き物たちにとっては、人間が毒としているものが食べ物になっていることもあるわけで、本来は、一概にどちらがどちらとも、本当は、そのように分けえないのであります。

 とにかく、一応は病気を治すという便宜上、人間の恣意的価値判断、都合において分けたとしても、むしろそれは、「仮」に分けただけのものであって、本来は薬とも毒とも言えない、そういうものだということをしっかりと認識しておくことで、より慎重に扱うことにも繋がり、使い方、用法・用量も間違えなくなるのであります。

 このように、「空」・「仮」を理解したところの「中」をも理解して、分別のいずれのありようも、しっかりと理解した上で、賢く使い分ける、注意深く扱えるようにしておきながら、かたより、とらわれ、こだわり、執着しないことが智慧の働きの一つとなるのであります。

 このようにして、「無分別」・「不二」から、更に「智慧」の自在なる働きと、慈悲の実践を伴わせていかなければならないということでもあります。

 さて、維摩経は、確かにフィクションの戯曲的物語ですが、それだからと言って、そう単純に軽んじることはできない内容であると考えます。是非、興味がありましたら邦訳・註釈書をお読み下さいませ。

 般若思想の目指すところは、縁起の理法を理解し、空観を調えることですが、様々に思惟分別・虚妄分別して、その分けたこと、また分けたどちらかに、かたより、こだわり、とらわれて、執着してしまうことから我執・法執などの妄執によって煩悩が起こり、迷い苦しみが生じてしまうことを徹底的に自覚した上で、智慧の開発を目指し、「自他不二」・「一切無差別平等」を如実に知見していかなければならないということです。

 この「自他不二」・「一切無差別平等」の見地に立ててこそ、真実のものの観方が調えられ、無執着にて、あるがままのあるがままである「真如」・「諸法実相」を如実に観ずることができるようになって、「無分別の智慧」・「般若波羅蜜の智慧」を完成させ、「不二而二 二而不二」を自在に了解し、更に大いなる自利利他・慈悲の実践を行っていかなければならないのであります。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕
著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2009 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.


一、はじめに
二、仏教基本法理の理解
三、時間的縁起・空間的縁起について
四、論理的縁起について
五、般若思想について
六、即非の論理について
七、中観思想・唯識思想について
八、華厳思想について
九、仏性思想・如来蔵思想について
十、相対から絶対へ
十一、絶対的絶対について
十二、確かなる慈悲の実践について
十三、現代仏教の抱える課題について
十四、最後に

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
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施本「佛の道」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

島村大心先生の
「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・2004年7月31日]

「現代仏教学を再生するためのホームページ」
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施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」第四章「論理的縁起について」

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第四章「論理的縁起について」

 次に、論理的縁起について詳しく扱いたいと思います。

 「AによってBがあり、BによってAがある」として、AもBも、縁起している相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的なるものとして、Aだ、Bだと言えるだけのことで、つまり、Aだ、Bだと言っているのは、言葉によって仮に設けられただけの、いわゆる「仮名・仮設・仮有」であって、何か、Aだ、Bだというような実体が、そもそもあるわけではない、つまり、AもBも「無自性・空性」であることを示すのが、この論理的縁起であります。

 また、そのA、Bというものは、例えば「苦楽」・「美醜」・「好き嫌い」・「愛憎」・「善悪」・「正誤」「貧富」・「優劣」など、私たちの(主観的・恣意的思惟、概念による)価値判断において分けたもののことや、「主客」・「自他」・「男女」・「同異」・「表裏」・「白黒」・「明暗」・「長短」・「大小」・「寒暖」、「○・非○」、「○・不○」なども含めて、あらゆる相対二元論のありようを扱うのが、この論理的縁起であります。

 例えば、「長い」は「短い」によって言え、「短い」も「長い」によって言える。「有る」は「無い」によって言えているだけであり、「無い」が無ければ「有る」は成り立たない、また逆もしかりであるということで、両者は相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的な縁起関係性において言えているだけのものであり、もしも、そのどちらかに実体があるとして、一方だけの世界があるとするならば、実は両者共にそう言えなくなってしまうというものでもあります。

 あくまでも両者が両方あってこそにおいて、両者共に言えているに過ぎないわけであります。

 それは、「迷いと悟り」・「煩悩と菩提」・「世俗諦と勝義諦」など、仏教における重要概念も同様であって、価値判断において分けたどちらかに実体があるのではない、どちらにもとらわれて執着してはならないというもので、更には、価値基準を設けて判断するような時間概念・「過去・現在・未来」なども、本来分けて実体視することができない、もちろん空間さえも実体視することもできない、あるいは「来る・来ない」・「走る・走らない」・「見る・見ない」・「知る・知らない」など、「働き」・「作用」すらも実体視することはできない、更には基準を設けて分別するような「数」や「量」も実体視できないなど、あらゆる全てについての「無自性・空」を理解することが大切となりますが、一応、世俗において、それらは論理的縁起関係で仮に有るものとして説明されるのだということであります。

 時空的縁起が示すのは、主体と客体、主観と客観という「見るもの・知るもの」と「見られるもの・知られるもの」の主客二元論を基底として、様々な存在の成立についての色々な原因や条件・結果を、一応は個物として認めざるをえないところにおいて、縁起関係を示したわけですが、論理的縁起関係は、最終的にそれらの個物すらも分別して、実体視して考えることはできないため、時空的縁起における原因・条件・結果の個物は成立しないことを示し、実は因果関係さえも否定することとなります。

 更には、人間が思惟分別、言語活動において、名前を付けているあらゆるものも、あくまでも仮構された概念的・観念的な存在であり、本当のそのものが何であるのかについて言及することは、本来不可能であって、一応は論理的縁起関係において仮に有ると言えているに過ぎず、それは、「有る」といえるものではないが、かといって「無い」というわけでもない、「非有非無」を理解して、「無自性・空」について考えるのが、論理的縁起の狙いであります。

 時空的縁起が扱うのは、主に現象・事象界の存在についてでありましたが、論理的縁起が扱うのは、より概念的・観念的な相対価値論・認識価値論・価値基準論における広範な分野であり、その示すところは、主客二元論・相対二元論を超えて、更には相対矛盾・対立矛盾を超えていくためであります。

 相対矛盾・対立矛盾とは、後の章にても詳しく述べますが、簡単に言いますと、虚妄分別を起こしてしまったそのどちらの分別における側にも、本来実体が無いのに、そのことが分からずに分別し続けて執着してしまう以上、まるで蜃気楼・逃げ水を追いかけるようにさ迷い求め続けることになり、両者の否定・肯定を無意味に繰り返し続け、結局はどちらの否定・肯定の進行においても、最終的に相互否定に至ってしまうということであります。

 この矛盾が分からずに、いつまでも虚妄分別したことにとらわれて、執着してしまっていることから離れさせるためにも、論理的縁起の理解が大切になるわけであります。

 また、論理学の命題における三大原則である同一律「AはAである」・矛盾律「Aは非Aでない」・排中律「AはBであるか、非Bであるかのどちらかである」にもとらわれず、この世におけるあらゆる一切の実体化を認めずに否定しきる、それは否定さえも否定するという「二重否定」でもあるのですが、「否定の否定」は、安易に肯定を意味するものではなく、あくまでも「肯定によって否定があり、否定によって肯定がある」という縁起関係において否定も肯定も言えているだけであり、どちらにも実体が無いということを示すための「二重否定」であります。

 繰り返しとなりますが、論理的縁起は、概念・観念・言語活動における表現、論理的思考なども含めて、あらゆることについての実体化を止滅した上で、言語道断・戯論寂滅へと至ることを示すわけでありますが、ここで少し言語活動の限界について、述べておきたいと思います。

 言語活動は、人間のコミュニケーション手段として重要な役割を果たしており、様々な学問も言語なしでは到底成り立ちません。言語活動は、人類社会の発展、文明の発展に多大に寄与してきました。

 しかし、果たして言語活動は万能であるのかと言いますと、決してそうとは言えません。

 例えば、真理というものを表すことはできるのでしょうか。

 確かに、色々と相手に分かってもらうために言語表現によって説明することはできるでしょう。しかし、「百聞は一見にしかず」という諺《ことわざ》がありますように、富士山を見たことのない者に、富士山は活火山で標高三七七六メートル、日本の最高峰で、雲の傘をかぶることもあり、雪化粧が美しく、赤富士は・・と、いくら説明したとしても、実際にその実物を見せない以上、その者に富士山そのものを分からせることは到底不可能であります。
 このように、言語活動に限界があることは当然に仕方ありません。仏教においても特に覚者が勝義諦(第一義諦)の真理について、どれほどに言語活動で説明したとしても、その真理が何であるかを、誰に対しても示すことはできないのであります。

 お釈迦様がお悟りを開かれた時、仏教の真理は思惟分別を超えたものであり、本当は言葉・言語では表すことができないが、それでも、その真理を説くためには、世俗における思惟分別をもって説かざるを得ないため、それではやはり理解されないかもしれないと危惧なされて、当初は伝道活動を躊躇されたというエピソードも当然のことであります。

 そのため、禅宗のように「不立文字《ふりゅうもんじ》・教外別伝《きょうげべつでん》」として最高真理は言語活動を超えたところであることを重視する宗旨もあります。

 しかし、安易に「言語道断」として沈黙してしまえば、それはそれでわけの分からないもの、何でもありにもなってしまいかねず、また神秘主義的傾向にも陥りかねない弊害があります。

 そのため、言語活動には限界があることをわきまえた上で、ぎりぎりまでは仏法真理について、先生・師からの言葉・表現・解説・比喩での学び、様々な仏典や註釈書、解説書での学びで、しっかりと理解してから、勝義諦についての直観的体験・体得へ向けて仏道修行の実践に取り組まなければならないということであります。

 また、不立文字・教外別伝を扱う禅宗においても、臨済宗では「公案《こうあん》」として、いわゆる禅問答を重視した師弟との表現のやり取りもありますが、それは、決して「単なる沈黙ではないという沈黙」を目指していかなければならないということで、このことは、次章における維摩経の内容において更に詳しく述べることと致します。

 とにかく、論理的縁起関係において示すことのできる、二元対立・二項対立を前提として成り立つ思惟・概念活動・言語活動は、もはや勝義諦という最高の真理へと至るためには、役に立たないということでもあり、いつまでも思惟分別、二元対立・二項対立において、この世におけることを捉えてしまい執着するような愚かなことは、いい加減に止めていくことが求められるわけであります。

 もちろん、無自性として示す「空」も同様に「空によって不空があり、不空によって空がある」として、世俗において自性・実体・人我・法我など「不空」なるものに、とらわれて執着してしまっている者の、その執着を離させるために「空」が説かれているに過ぎず、その「空」さえも実体視してしまうことは許されないのであります。

 あらゆるもの・こと・概念・観念・思惟分別の実体視をあまねく否定するのが、この論理的縁起の役割であり、般若思想・中観思想が最も重視した縁起となりますが、最終的には、この論理的縁起関係をも超えていくところを目指さなければならないのであります。

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一、はじめに
二、仏教基本法理の理解
三、時間的縁起・空間的縁起について
四、論理的縁起について
五、般若思想について
六、即非の論理について
七、中観思想・唯識思想について
八、華厳思想について
九、仏性思想・如来蔵思想について
十、相対から絶対へ
十一、絶対的絶対について
十二、確かなる慈悲の実践について
十三、現代仏教の抱える課題について
十四、最後に

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第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
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施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」第三章「時間的縁起・空間的縁起について」

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第三章「時間的縁起・空間的縁起について」

 「縁起を見る者は、法(真理)を見る。法(真理)を見る者は、縁起を見る」と言われますように、縁起は、まさに仏法真理の理解において最も重要であり、その理解について、私たちは誤りなく、しっかりと進めていかなければなりません。

 縁起には、時間的縁起・空間的縁起・論理的縁起とありますが、まずは、時間的縁起について考えて参ります。

 時間的縁起は、時間的先後の因果関係について扱うものであり、縁起を「因縁生起《いんねんしょうき》」の略であるとして、「因」は直接的原因、「縁」は間接的原因・条件のことを示し、現象界における様々な事象は、原因・条件によって結果が起こる、ということを表し、原因や条件に応じて、様々なモノが生滅変化していくということを、「諸行無常」と表すわけであります。

 例えば、現象・事象におけるあらゆる存在は、様々な原因と条件に応じて生滅変化していくということで、前章でも述べましたように、「AはBという原因、Cという条件によって生じたが、Bという原因、またはCという条件が無くなってしまう、変化してしまうと、Aは成り立たなくなってしまい、もはや、Aと言えなくなり、Aは滅することとなる。また、別のDという原因、Eという条件によって、AがFになり、更にGという原因によって・・」、そのBという条件も「BはHという原因、Iという条件によって生じたが・・」というものであります。

 つまり、私たちが分別して様々に認識・識別するために「名前」を与えているあらゆる存在についても、そう呼べているための「原因」・「条件」が変化したり、「原因」・「条件」が無くなったりすれば、もうそう呼べる存在ではなくなってしまい、当然にその名前も変わっていくこととなります。

 例えば、水については、様々な原因や条件(化学変化・温度)に応じて、性質が変わってゆくと、お湯や水蒸気、雲と呼んだり、水素と酸素の化合物として「H2O」と表し、もちろん化学変化によって水素と酸素が分かれてしまえば、もうそれは水とは言えなくなってしまいます。また、場所に応じても、淡水、海水、地下水、氷河など、場所を表す言葉を繋げて表現されることもあります。

 この場合の縁起は、前章でも述べましたように時間的先後の因果関係を主に示すものであり、「諸行無常」を説明する際に重要な役割を担うものであります。

 モノのありようを観るときに、そのモノがモノたらしめられているためには、様々な原因や条件があってこその成り立ちがあるのであり、何一つとして、それだけで単独・孤立に存在して、生じたと言えるものはなくて、そのものが生じる原因・条件があり、その原因・条件をたどっていけば、実はどこまでもどこまでも遡っていき、まさに無限遡及となって参ります。

 私が存在するためには、父と母がいて、そのまた父と母がいて、さらに・・人類の誕生、哺乳類の誕生・・進化の過程、生命の誕生、地球の誕生、太陽系の誕生、銀河系の誕生、宇宙の誕生などの原因がなければならなかったですし、更には、空気、水、食べ物・・と存在するための条件も考えると、もうキリがありません。

 しかし、時間的縁起は因果関係を示すものですが、その原因・条件・結果を、あくまでも個物として考えなければならないという欠点があります。最終的に、個物については、「無自性・空」であって、分別して考えることはできないものであり、あくまでも時間的縁起の因果関係は、世俗諦における「諸行無常」の理解のための縁起であることについては、留意しておかなければなりません。

 次に空間的縁起とは、「Aがあるためには、Bがないと成り立たない、Bがあるためには、Cがないと成り立たない、更にCが・・」、「Dがあるためには、EとFがないと成り立たない・・HとIとJとによって、Kが成り立っている・・」ということで、主に空間的な相依関係を考えることになりますが、因果関係とも深く結びつくものであり、現在、様々に存在しているモノも、当然に色々な原因・条件に応じて現れていますが、突き詰めて、その原因・条件を遡ると、例えば、同じ原因・条件としての「ビッグバン」まで遡る、銀河系・太陽系の生成に遡る、太陽・地球の誕生に遡る、生命はバクテリアの誕生にまで遡っていくというように、同じ原因・条件から、また様々な無数の原因・条件を互いに経て、現在、同空間において同時平行的に存在できており、もしも、宇宙・地球という空間、生態系という空間が無ければ、当然に互いに存在できていないということでもあります。

 つまり、私は空気や水や食物がなければ存在できない、空気や水や食物は、自然環境・生態系がなければ存在できない、自然環境・生態系は、地球がなければ成り立たない、更には・・太陽がなければ、銀河系がなければ、宇宙がなければ・・と、その存在が存在たらしめている空間的要因を挙げていけば、どこまでも広がっての相依的相関関係を述べることができます。

 例えば、今、私が肺へと吸った酸素は、私たちが生きていく上で欠かせないものですが、その酸素についても突き詰めていけば、どこどこの植物が、いついつに光合成で作ったものであり、光合成のためには・・その植物が育つためには・・生命の誕生、進化・・地球の誕生・・宇宙の誕生と、無限に遡及していく関係性がまた広がって言えるわけであります。特に生態系のありようを考えれば、この空間的縁起の理解は簡単に及ぼすことができるのではないかと思います。

 誠に繰り返しとなりますが、例えば太陽・地球、空気・水、土壌・養分があるなど、色々な原因・条件が調ってこそ植物は光合成を行い、生長でき、実をつけるための受粉には、寒暖差によって生じる大気の流れである風や、また昆虫の活動が必要であり、更には、その植物を食する昆虫や動物もいて、その排泄物がバクテリアによって分解され有機物となり、また食物連鎖の中へと入ってゆく・・と関わっている原因・条件を挙げれば、挙げていくほどに関係性が広がって参ります。

 このように考えますと、現象界におけるあらゆるものは、永久永遠に「それがそれだ」、「これはこれだ」として成り立つものは見あたらず、実体が無いものとして「諸法無我」と言えるわけであります。

 また明らかに、今は何ら関係性や影響をもたらさないと思われる存在でも、何らかの原因・条件によっては、直接的に関係性・影響を及ぼす可能性も当然に考えられます。

 宇宙空間に漂うただの石の固まりが、ちょっとした重力場の影響での軌道のずれで、地球へと落下する隕石になってしまうこともあるわけで、その大きさによっては地球の環境を激変させてしまう場合もあり、およそ六千五百万年前に地球に衝突した隕石によって、恐竜が大量絶滅したような例もあるわけであります。

 また、今は何ら人体に害のないウィルスであっても、原因や条件によって、突然変異して人体に有害なインフルエンザウィルスとなってしまうと、例えば「スペインかぜ」のように、当時の全人類の半数近くが感染し、四千万人ほどが亡くなるというような事態も起こってしまうのであります。

 太陽風の活動や、あるいは超新星爆発による強烈なガンマ線などが、地球に大きな影響を及ぼすこともあります。

 例えば、大マゼラン銀河における超新星爆発によって放出されたニュートリノが、地球でも観測されたのは有名な話であります。

 このように考えますと、宇宙のはるか彼方の出来事が、地球にも重大な影響を与えてしまうこともありうるわけであり、この宇宙の中におけるあらゆる現象も、私たちの思考・認識レベルでは図れないような関係性も、当然にあるかもしれません。ダークマター・ダークエネルギーの役割やビッグバン理論・ビッグクランチ理論、ブラックホール理論の解明などで、今後様々に、私たちと宇宙との関係性が新たに明らかになる可能性もあります。

 人も、空間や自然環境、社会環境とは、切っても切れない関係にあり、例えば一人の人間の思想や行動が、人間社会全体に多大な影響を及ぼすこともあり、また、人間社会全体の流れが、一人の人間に影響を与えることもあります。

 約二千六百年前に、お釈迦様が広められた仏法は、時代・世代を経て、何十億人、何百億人にも影響を与えているわけであり、私もその影響を受けて、現在は、一僧侶として、お寺で過ごし、法要や作務に勤め、真理の追究、本論の論考、お施本の執筆に取り組んでいるわけであります。

 さて、少し考えを及ぼしますと、全体としての「多」と、個としての「一」が互いに関係しあって、相互依存、相依相関関係にあるということも空間的縁起は示しているわけでもあります。

 とにかく、現象界・事象界のあらゆるものは、何かそれ自体として、独立・孤立して存在していると言えるわけではなく、実体の無いということを仏教では「空」というわけであります。

 ただ、時間的縁起、空間的縁起も、あくまで相対的なものの考え方において、無常・無我・無自性・空を示しているということであって、当然に注意が必要となります。

 それはつまり、自と他の存在のあり方を、時間的・空間的に因果関係・相互依存関係・相依相関関係で捉えて、自も他も実体的に固定して、永遠に変化しないものではないということを説明するためでもありますが、時間的縁起・空間的縁起の弱点は、複雑な因果関係性・相互依存関係性・相依相関関係性を解き明かして、全てを説明できるという訳ではなく、私たちが関係ないとしているものであっても、実は関係が無いとは言えないと述べるだけでは、なかなか納得しがたいところもあると思いますし、また、思惟する限りにおいて、関係のないものとしてしまうものであっても、関係がないという関係があるとして、ある種、詭弁的なことを説明する必要も生じてしまう場合があります。

 つまり、時間的先後の因果関係、空間的な相互依存関係性・相依相関関係性の広がりに言及し出すと、過去においては、どこまでもどこまでも無限遡及してしまうこととなり、また、未来へ向けてこれから先の因果関係、空間的相互依存関係性・相依相関関係性を思惟して、想定できる限りを想定していっても、結局は無限に広がってしまい、その終わりが見あたらなくなってしまいます。

 例えば、素粒子の、更にその先の物質世界を説明する理論の解明や、また、ビッグバン以前の状態のこと、宇宙の外はどうなっているのか、宇宙は有限なのか無限なのか、宇宙の終焉はどうなるのかなど、もうそれは思惟的範囲の限界を超えてしまうこととなり、いわゆる形而上学の世界に入ってしまうこととなります。

 形而上学的なことについて、お釈迦様は扱うことを避けられました。いわゆる「無記《むき》」であります。

 それは、「世界は常住か、非常住であるのか?」・「世界は有限か、無限であるのか?」・「霊魂と肉体は同一か、別々のものか?」・「如来は死後存在するのか、しないのか?」・「如来は死後存在しつつ、非存在であるのか?」・「如来は死後存在するものでもなく、非存在でもないのか?」などの問題についてであります。

 これらの問いは、仏道の実践において何の役にも立たない問いであるとして、お釈迦様は沈黙されて回答を退けられたのであります。それは、「毒矢の例え」によって示されていますように、「現実の苦しみ、苦しみの原因、苦しみを無くす方法」について、しっかりと学び、実践して、苦しみを確実に無くすことが、何よりも重要であるということです。

 とにかく、時空的縁起においては、時空を超える何かについて言及することができない以上、全てについて、「無自性・空」であることを説明することに限界があり、そこで、次章で扱います論理的縁起による補完が、更に必要になるものであると考えます。

 また、時空的縁起の弱点は、あくまでも様々な縁起関係にある個物を、一応は「仮に有るもの」として認めざるをえないところにもあって、個物についての「無自性・空」を完全に理解できるわけではない、ということについても、やはりしっかりと考えておかなければならないと思います。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕
著作権は川口英俊に帰属しています。
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一、はじめに
二、仏教基本法理の理解
三、時間的縁起・空間的縁起について
四、論理的縁起について
五、般若思想について
六、即非の論理について
七、中観思想・唯識思想について
八、華厳思想について
九、仏性思想・如来蔵思想について
十、相対から絶対へ
十一、絶対的絶対について
十二、確かなる慈悲の実践について
十三、現代仏教の抱える課題について
十四、最後に

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

島村大心先生の
「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・2004年7月31日]

「現代仏教学を再生するためのホームページ」
URL: http://www.h7.dion.ne.jp/~sdaisin/

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施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」第二章「仏教基本法理の理解」

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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第二章「仏教基本法理の理解」

 今回もまずは、仏教の基本法理につきまして整理して参ります。四法印、「諸行無常《しょぎょうむじょう》」・「諸法無我《しょほうむが》」・「一切皆苦《いっさいかいく》」・「涅槃寂静《ねはんじゃくじょう》」と四聖諦、「苦諦」・「集諦《じったい》」・「滅諦」・「道諦」でございます。

 四法印につきましては、前号から特に大きな解釈的変更はございませんので、前回の内容をおさらいし、簡単に縁起の観点から補足しておきたいと思います。

 さて、始めに「諸行無常」でありますが、「諸行」は「無明《むみょう》・煩悩で真理を知らないこと、愚かさによって、様々に存在・事物に形を作り上げてしまった上での意思・行為」・「主客の二分から始まる虚妄分別によって、様々に存在・事物に形をもたらしてしまった上における意思・行為」ということで、その意思・行為により、様々にこの世の現象・事象における存在について、あたかもそれらを常住・固定不変なるものとして捉えてしまい、本当は「常」も「無常」も、そのどちらでもないにもかかわらず、そのことが分からずに、常住・固定不変なるものとして「常」であると、とらわれて執着してしまうことを避けるために、「常」としてしまう「諸行」を前提として、その「諸行」は「無常」であるとして、「常」を否定するための教説であります。

 この諸行無常における、生滅変化のありようについては、次章にて詳しく述べさせて頂きます「時間的縁起」、つまり、時間的先後の因果関係によって理解されるものであります。

 時間的先後の因果関係とは、現象・事象における存在は、様々な原因と条件に応じて生滅変化していくということであり、もう少し詳しく述べますと、「AはBという原因、Cという条件によって生じたが、Bという原因、またはCという条件が無くなってしまう、変化してしまうと、Aは成り立たなくなってしまい、もはや、Aと言えなくなり、Aは滅することとなる。また、別のDという原因、Eという条件によって、AがFになり、更にGという原因によって・・」、そのBという条件も「BはHという原因、Iという条件によって生じたが・・」として示されていくものであります。

 もちろん、この場合の「A」、「B」、「C」・・などの個物については、最終的に「無自性・空」であって、分別して捉えることはできませんが、「時間的縁起」においては、一応、それら個物が仮に有るとした前提において、各個物を条件・原因・結果として示していることには、十分な注意が必要となります。

 とにかく、「諸行無常」の理解では、この世における一切の存在は、刻々と様々な原因・条件によって変化し続け、常住・固定不変なるものはない、ということを理解して、あらゆる事物に対する執着を離していくことが求められるのであります。個物の「無自性・空」につきましては、後の章において詳しく扱って参ります。

 次に、「諸法無我」でありますが、「諸行無常」における時間的縁起関係を理解した上で、この世における一切の存在は、刻々と様々な原因・条件によって変化し続け、常住・固定不変なるものはないということから、更に、この世における一切の存在には、何ら「実体が無い」ということを示すものであり、つまり、「諸法」とは「様々に認識・判断して形成された存在・事物」でありますが、その存在・事物を実体あるものとして、とらわれてしまっているということを、「我」でも「無我」でもどちらでもない、ということが分からず、「我」(実体)に執着してしまうことを離すために、「我」としてしまう「諸法」を前提として、その「我」は「無我」であると否定しているものであります。

 この無我によっての実体否定は、「時間的縁起」を踏まえた上で、第三章にて詳しく述べさせて頂きます「空間的縁起」としての「Aがあるためには、Bがないと成り立たない、Bがあるためには、Cがないと成り立たない、更にCが・・」、「Dがあるためには、EとFがないと成り立たない・・HとIとJとによって、Kが成り立っている・・」という空間的相互依存関係と、更に第四章において扱います「論理的縁起」としての「これあればかれあり、これなければかれなし」・「これによってかれがあり、かれによってこれがある」として、「これ」も「かれ」も相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的に言えているだけに過ぎないものとして、「これ」も「かれ」も、それが単独・独立・孤立して成り立っているということではなく、「これ」も「かれ」も実体が無いということを表すわけであります。これらの「空間的縁起」・「論理的縁起」と「時間的縁起」も合わせて考えることによって、あらゆる存在の「無我」を示すものであります。

 「一切皆苦」につきましては、具体的に「生・老・病・死」の四苦、そして、「愛別離苦《あいべつりく》」・「怨憎会苦《おんぞうえく》」・「求不得苦《ぐふとっく》」・「五蘊盛苦《ごうんじょうく》」の四苦を合わせて、「四苦八苦」として表されますが、「諸行無常」の中、あらゆる全てが変化してゆくため、その変化を止めようとしても止まらない、止めようがない、止まるものがない、その不安定さについて不満となってしまう、また、この世においては、実体視して事象・現象を捉えようとしても、何ら実体的なものが見あたらず、どんなに実体を探そうと求めても探せるものではなく、得ることができないということがわからないままに、迷い苦しんでしまうのであります。

 つまり、簡単に述べますと無常と無我を理解できないため、苦しみに陥ってしまうということでもあります。

 また、思考・思慮・思惟して、この世におけることを虚妄分別して、相対判断・認識してしまっている以上、必ず相対矛盾が生じてしまい、迷い苦しむことになるということでもあります。相対矛盾につきましては、後の章にて詳しく扱うことと致します。

 「諸行無常」と「諸法無我」という教説については、施本「仏教・空の理解」でも述べさせて頂きましたように、「世俗諦《せぞくたい》・勝義諦《しょうぎたい》(第一義諦)の二諦」からの理解も重要であり、あくまでも世俗諦において「常」・「我」にとらわれて執着してしまっている者たちに対して、お釈迦様が「無常」・「無我」と説かれた教えであります。

 それは、中論・「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』とありますが、つまり、お釈迦様は、「常」・「我」にとらわれて執着している者には、「無常」・「無我」を説き、「無常」・「無我」にとらわれて執着している者には、「常」・「我」を説き、「常・無常」・「我・無我」のどちらにもとらわれて執着している者には、「無常・無無常」・「無我・無無我」を説かれたということであります。

 このことを理解して、最終的には戯論《けろん》(形而上学的議論)が滅されて、言葉では語りえない、つまり「言語道断」の領域に至って、存在・事物を虚妄分別《こもうふんべつ》し、形成してしまうことで認識・判断したことによる意思・行為も無くなって、無差別平等・不二平等を知見し、無分別の智・般若の智など、智慧を滋養させて、無明の闇、愚かさ、煩悩を滅して、一切へのとらわれ執着も無くなり、迷い苦しみから完全に離れた、という状態のことを「涅槃寂静」と言うわけですが、ここで涅槃についての仏教における四つの大別について少しまとめておきます。

有余涅槃《うよねはん》・・精神的な面においては煩悩を完全に断滅できたものの、肉体がある限り、その肉体による根本的生存欲求による苦しみは残ってしまっているという段階の涅槃のこと。

無余涅槃《むよねはん》・・有余涅槃に至った者が、死によって、肉体による苦しみも無くなり、精神・肉体共、完全に涅槃の段階に入ったということ。大般涅槃とも言われる。

本来自性清浄涅槃《ほんらいじしょうせいじょうねはん》・・人間の本性は自性清浄であるが、煩悩に覆われてしまっているため、そのことを自覚することができない状態であるものの、一切衆生はもともと如来を蔵するものであり、仏性を有している、本来的には仏の悟りの状態が備わっているとして、そのことを涅槃と言うわけであります。このことにつきましては、第九章の「仏性思想・如来蔵思想」において詳しく扱うことと致します。 

無住処涅槃《むじゅうしょねはん》・・煩悩障《ぼんのうしょう》(我執によって生じる煩悩による障り)と所知障《しょちしょう》(法執によって生じる煩悩による障り)を断滅し、「我執」と「法執」を離れ、「我空」と「法空」を真に理解し、もはや、「迷いと悟り、生死と涅槃、煩悩と菩提」のそのどちらにもとらわれることもなくなり、「般若の智・無分別の智」などの智慧の働きが備わって、「不二而二《ふににに》 二而不二《ににふに》」のありようを理解し、「勝義諦から世俗諦へ、世俗諦から勝義諦へ」という自由自在なる智慧の働きによって、一切衆生救済のための慈悲の活動を展開する境地における涅槃のことであります。

 「涅槃寂静」につきましては、前回の施本において勝義諦に近いところであるとして説明させて頂きましたが、確かに勝義諦に近いものの、この涅槃寂静も他の三法印と同様に、あくまでも世俗諦的なところでの領域に留まる教説であると考えます。それは、やはり涅槃と言えども、概念的な理解の域を抜けるものではなく、最終的な勝義諦においては、いかなる概念であったとしても、もはや実体視することはできない、つまり、「涅槃」も「空」というわけであります。

 次に四聖諦につきましても縁起の観点から簡単に整理しておきたいと思います。

 「苦諦」とは、四法印の「一切皆苦」と同意で、私たちは四苦八苦する世界、真理を知らずに無明の闇に覆われた迷妄の苦しみの世界を過ごしてしまっている、ということであって、それは、苦しみをもたらす原因である渇愛《かつあい》(根本的欲望)、我執などの様々な妄想執着(妄執)を生み出す煩悩、または、真理を知らない愚かさ(無明)が原因であるということの「集諦《じったい》」であって、その原因となってしまっている無明の闇を打ち破り、渇愛・妄執を断滅し、煩悩を止滅させるという「滅諦」のためには、「菩提心《ぼだいしん》」を起こして、智慧を開発していくための「戒・定・慧の三学」・「八正道」・「六波羅密《ろくはらみつ》」など仏道・菩薩道の実践、自利利他・慈悲行の実践など、「道諦」が必要だということであります。

 縁起的には、集諦が原因となって、苦諦が結果となる因果関係を「流転縁起《るてんえんぎ》」と呼び、道諦という原因から、煩悩を無くして滅諦へと至る結果となる因果関係を「還滅縁起《げんめつえんぎ》」と呼びます。

 これは、十二縁起の「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」における、「無明→行→・・生→老死」という迷いが生じる流れ(順観)を「流転縁起」として、「老死→生→・・行→無明」という迷いの原因が滅していく流れ(逆観)を「還滅縁起」として表すものでもあります。

 十二縁起は、なぜ苦しみが生じるのかということについて、徹底して知見していくために順を追って、その因縁を記したものであり、目指すところは、苦しみの原因は無明にあることを明らかにして、その無明を打ち破って、智慧を開発し、迷いを離れて、苦しみをなくしていくためであります。

 ただ、やはり注意が必要となりますのは、「一切皆苦」・「涅槃寂静」と「四聖諦」については、「苦・楽」や「善・悪」、「迷い・悟り」など、いわゆる(主観的・恣意的)価値判断を扱うことになるため、最終的には、論理的縁起関係をも、しっかりと理解して考えなければならないという難解さが控えていることであります。つまり、「苦・楽」・「善・悪」・「迷い・悟り」も、それぞれ実体が無い「空」ということですが、そのことにつきましても後の章にて詳しく扱います。

 また、十二縁起から、業によって私たちは苦しみの世界を輪廻《りんね》するものとして、「業感縁起《ごうかんえんぎ》」が説明されます。

 それは、輪廻転生を時間的縁起としてとらえて、苦しみの原因が無明の煩悩(惑)による思惟・思考・意思・行為(業)にあって、その思惟・思考・意思・行為(業)によって、苦なる生存が繰り返されるということで、つまり、「惑→業→苦」の連鎖的・円環的因果関係のことでありますが、特に部派仏教時代における説一切有部《せついっさいうぶ》が唱えた考え方であります。

 もちろん、業感縁起についても、善悪という価値判断、「善因楽果・悪因苦果」の因果関係を伴うものであり、やはり、最終的には、論理的縁起の理解が待たれるもので、輪廻転生については、あくまでも煩悩を滅する目的のために、方便的な意味で説かれたと解するのが妥当ではないかと考えます。

 以上、仏教の基本法理につきましては、非常に重要な教説ではありますが、その教説に執着してしまってもいけません。般若心経には、「苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない」とありますように、「四聖諦」を実体視してしまうことも否定しており、また、中論「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)における『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得《うしょとく》)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』とありますように、ブッダのいかなる教説すらも実体視してしまうことができないということは、最終的に押さえておかなければなりません。

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一、はじめに
二、仏教基本法理の理解
三、時間的縁起・空間的縁起について
四、論理的縁起について
五、般若思想について
六、即非の論理について
七、中観思想・唯識思想について
八、華厳思想について
九、仏性思想・如来蔵思想について
十、相対から絶対へ
十一、絶対的絶対について
十二、確かなる慈悲の実践について
十三、現代仏教の抱える課題について
十四、最後に

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

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島村大心先生の
「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・2004年7月31日]

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施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」第一章「はじめに」

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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第一章「はじめに」

 この浅学非才、未熟者の身ながらも、これまでに施本「佛の道」・「仏教~・一枚の紙から考える~」・「仏教・空の理解」・「仏教・空の理解から学ぶ」と発行させて頂きました。

 この度は、仏教の理解のために、更に一歩進めまして、特に「縁起」を中心論点として、この施本を執筆させて頂きました次第でございます。

 仏法の真理の理解へ向けまして、またこの未熟者なりに少しは近づけたのではないだろうかと僭越ながらも考えております。

 また、できましたら本論を読み進めて頂きます前に、これまでの前四施本をまずは、お読み下さいますことをお願い申し上げます。それらの内容を前提としまして、本論を著しておりますので、重複する内容は極力、省かせて頂いております。往生院六萬寺のホームページの方でも全文公開させて頂いておりますので、まだの方はそちらでも是非お読み下さいませ。

 インターネットをされていない方には、施本の数に余裕がございましたら、ご送付させて頂きますので、お気軽にお申し付け下さい。

 この施本が、これから読者の皆様方が仏教の学びを進められる上におきまして、少しなりともご参考になるところがございましたら、誠に幸いでございます。

 また、仏教の真理につきましては、ここにおいて私が述べさせて頂きましたことが絶対的に正しいとは、私自身も当然に思ってはおりません。

 なぜならば、人間の認識・判断・理解におきましては、その人の経験・学習・知識からの、考え方・思想・主義・主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの、恣意《しい》的要素が相当に入ってしまうことが多々あるため、当然に、まだまだ私自身においてもしかりでございます。

 内容に関しましては、必ずご批判、ご反論もあることと存じます。それらのご批判、ご反論もしっかりと受けとめて、確かなる仏教の理解へ向けまして、今後、更に歩みを進めていければと考えております。

 また、私自身、本論における解釈・解説につきまして、ここに書かせて頂きました内容に執着するつもりも毛頭ございません。間違いは間違い、誤りは誤りとして認めるべきところが出てきましたら、それはしっかりと受け入れて認めて、修正・変更して参りたいと考えています。

 そのため、本論を読み進めて頂きます上におきましては、あくまでも内容は、まだまだ一僧侶の未熟なる理解にしか過ぎず、仏教の真理につきましては、読者の皆様方の精進努力による真理探究、見極めも当然に大切であると考えております。

 このことを、まずはご理解賜りまして、これからも共に仏教の学びを進めさせて頂ければ幸いでございます。

 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。全てのものたちが、苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

 川口 英俊 合掌


参考について……

 現在、私の仏教の学びの進めにおきましては、島村大心先生の「現代仏教学を再生するためのホームページ」におけます、「空の公理・真理命題・定理」を重要な論点視座とさせて頂いております。

 まだまだ自身、理解未熟なところが多くございますが、是非、皆様方も先生の論考集をお読みになられまして、ご参考にして頂けましたらと存じます。

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引用について……

「中論」の邦訳は、〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕からの引用でございます。

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一、はじめに
二、仏教基本法理の理解
三、時間的縁起・空間的縁起について
四、論理的縁起について
五、般若思想について
六、即非の論理について
七、中観思想・唯識思想について
八、華厳思想について
九、仏性思想・如来蔵思想について
十、相対から絶対へ
十一、絶対的絶対について
十二、確かなる慈悲の実践について
十三、現代仏教の抱える課題について
十四、最後に

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

島村大心先生の
「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・2004年7月31日]

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施本第五弾・印刷製本打ち合わせ

施本第五弾は印刷製本打ち合わせを行いました。いよいよ発行へ向けまして調えて参りますが、施本発行出来の前にホームページで先行公開予定であります。早ければもう近日より随時公開して参ります。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」


一、はじめに
二、仏教基本法理の理解
三、時間的縁起・空間的縁起について
四、論理的縁起について
五、般若思想について
六、即非の論理について
七、中観思想・唯識思想について
八、華厳思想について
九、仏性思想・如来蔵思想について
十、相対から絶対へ
十一、絶対的絶対について
十二、確かなる慈悲の実践について
十三、現代仏教の抱える課題について
十四、最後に

施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
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施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
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施本「佛の道」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

下記文献を新たに追加しました。


「華厳思想 (講座・大乗仏教)」平川彰編集・梶山雄一編集・春秋社
「浄土思想 (講座・大乗仏教)」梶山雄一編集・高崎直道編集・春秋社

ようやく「講座・大乗仏教 華厳思想」を手に入れることができました・・施本第五弾の論考に間に合わなかったのが少し悔やまれるところであります・・

・・

島村大心先生の
「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・2004年7月31日]

「現代仏教学を再生するためのホームページ」
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読書の進捗状況
(→・進行中 ○・読み終え ○の数・一通り読んだ回数 △・中途停止 ▽・読み進める前 □・随時参照)

○「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」
 黒崎宏著・春秋社
○「空の思想―仏教における言葉と沈黙」
 梶山雄一著・人文書院
○「空の実践 ブッディスト・セオロジー(4)」(講談社選書メチエ)
 立川武蔵著・講談社
○「唯識の哲学」(サーラ叢書 23)
 横山紘一著・平樂寺書店
△「日本仏教の思想 受容と変容の千五百年史」(講談社現代新書)
 立川武蔵著・講談社
▽「涅槃経―如来常住と悉有仏性」 (サーラ叢書 26)
 横超慧日著・平楽寺書店
▽「中観と空1・梶山雄一著作集4」
 梶山雄一著・御牧克己編・春秋社
▽「空と中観」
 江島惠教著・春秋社
○△「仏教思想・7・空・下」
 仏教思想研究会編・平樂寺書店
▽「般若思想史」ワイド版版
 山口益著・法蔵館
△△「講座・大乗仏教 認識論と論理学」
 春秋社
△「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
△△「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
○「批判仏教」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「道元思想論」
 松本史朗著・大蔵出版
▽「仏教への道」
 松本史朗著・東京書籍
▽「法然親鸞思想論」
 松本史朗著・大蔵出版
▽「法然と明恵―日本仏教思想史序説」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「仏性思想の展開」
 奥野光賢著・大蔵出版
▽「天台学―根本思想とその展開」
 安藤俊雄著・平楽寺書店
▽「台密教学の研究」
 大久保良峻著・法蔵館
▽「本覚思想の源流と展開」
 浅井円道著・平楽寺書店
▽「天台教学と本覚思想」
 大久保良峻著・法蔵館
▽「最澄と天台本覚思想―日本精神史序説」
 栗田勇著・作品社
○「仏教の哲学的理解」
 佐藤慶二著・平楽寺書店
▽「アーラヤ的世界とその神―仏教思想像の転回」
 津田真一著・大蔵出版
▽「反密教学」
 改訂版・津田真一著・春秋社
▽「禅思想の批判的研究」
 松本史朗著・大蔵出版
○「講座・大乗仏教 如来蔵思想」
 春秋社
○「仏教の倫理思想―仏典を味読する (講談社学術文庫)」
 宮元啓一著・講談社
○「般若心経とは何か―ブッダから大乗へ」
 宮元啓一著・春秋社
○「ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ」
 宮元啓一著・春秋社
▽「インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)」
  宮元啓一著・講談社
○「華厳とは何か」
 竹村牧男著・春秋社
○「華厳経をよむ―仏のさとりと菩薩の実践広大・壮麗な宗教宇宙 (NHKライブラリー) 」
 木村清孝著・日本放送出版協会
○「華厳の思想 (講談社学術文庫)」
 鎌田茂雄著・講談社
○「無限の世界観「華厳」―仏教の思想〈6〉 (角川文庫ソフィア)」
 鎌田茂雄著・上山春平著・角川書店
▽「「華厳経」を読む (仏典を読むシリーズ) 」
 西本照真著・武蔵野大学編纂・角川学芸出版
○「渾沌(カオス)への視座―哲学としての華厳仏教 」
 山田史生著・春秋社
△「和訳 華厳経」
 鎌田茂雄著・東京美術
▽「華厳禅の思想史的研究」
 吉津宜英著・大東出版社
△「唯識説を中心とした初期華厳教学の研究―智儼・義湘から法蔵へ」
 大竹晋著・大蔵出版
▽「華厳思想 (講座・大乗仏教)」
 平川彰編集・梶山雄一編集・春秋社
▽「浄土思想 (講座・大乗仏教)」
 梶山雄一編集・高崎直道編集・春秋社
○「法華思想 (講座・大乗仏教4)」
 春秋社
○「法華経を読む (講談社学術文庫)」
 鎌田茂雄著・講談社
○「法華経―真理・生命・実践 (中公文庫BIBLIO)」
 田村芳朗著・中央公論新社
○「法華経入門 (岩波新書)」
 菅野博史著・岩波書店
▽「法華経の七つの譬喩―初めて学ぶ『法華経』(レグルス文庫 (207))」
 菅野博史著・第三文明社
▽「図説 法華経大全―「妙法蓮華経全二十八品」現代語訳総解説 (エソテリカ・セレクション)」
 大角修翻訳・学習研究社
△「初期大乗と法華思想 (平川彰著作集)」
 平川彰著・春秋社
○「法華経の出現―蘇る仏教の根本思想」
 菅野博史著・大蔵出版
▽「法華経思想史から学ぶ仏教」
 菅野博史著・大蔵出版
▽「密教 (岩波新書)」
 松長有慶著・岩波書店
▽「観音経講話 (講談社学術文庫 ) 」
 鎌田茂雄著・講談社
▽「般若心経講話 (講談社学術文庫) 」
 鎌田茂雄著・講談社
▽「理趣経 (中公文庫BIBLIO)」
 松長有慶著・中央公論新社
▽「最澄と空海―日本仏教思想の誕生 (講談社選書メチエ) 」
 立川武蔵著・講談社
▽「密教概論」
 高神覚昇著・大法輪閣
▽「正法眼蔵随聞記講話」
 鎌田茂雄著・講談社
○「維摩経講話」
 鎌田茂雄著・講談社
○「維摩経をよむ―日本人に愛されつづけた智慧の経典」
 菅沼晃著・日本放送出版協会
○「天台思想入門―天台宗の歴史と思想」
 鎌田茂雄著・講談社
○「仏教誕生」
 宮元啓一著・筑摩書房
○「誤解された仏教」
 秋月龍著・講談社
▽「古仏のまねび「道元」」
 高崎直道著・梅原猛著・角川書店
▽「生命の海「空海」」
 宮坂宥勝著・梅原猛著・角川書店
▽「絶望と歓喜「親鸞」」
 増谷文雄著・梅原猛著・角川書店
▽「密教の思想」
 立川武蔵著・吉川弘文館
○「仏教の謎を解く」
 宮元啓一著・鈴木出版
▽「密教・自心の探求―『菩提心論』を読む」
 生井智紹著・大法輪閣
▽「『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)」
 中村元著・東京書籍
○「現代を生きる仏教」
 秋月龍著・平凡社
○「仏教思想の根本問題―縁起と空」
 菅谷章著・原書房
▽「「正法眼蔵」を読む―現代を生き抜く一二〇の知恵」
 秋月龍著・PHP研究所
▽「『金剛頂経』入門―即身成仏への道 」
 頼富本宏著・大法輪閣
▽「『大日経』入門―慈悲のマンダラ世界」
 頼富本宏著・大法輪閣
▽「知の教科書 密教」
 正木晃著・講談社
▽「密教の哲学」
 金岡秀友著・講談社
▽「空海の思想的展開の研究」
 藤井淳著・トランスビュー
▽「西田幾多郎の思想」
 小坂国継著・講談社
○「西田幾多郎―「絶対無」とは何か」
 永井均著・日本放送出版協会
▽「西田哲学の根本問題」
 滝沢克己著・小林孝吉編集・こぶし書房
▽「仏教的立場から西田哲学への理解」
 増田鷹雄著・三崎堂
▽「西田幾多郎―生きることと哲学」
 藤田正勝著・岩波書店
▽「西田幾多郎とは誰か」
 上田閑照著・岩波書店
▽「絶対無の哲学―西田哲学研究入門」
 花岡永子著・世界思想社
○「道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか」
 頼住光子著・日本放送出版協会
△「絶対無の哲学―西田哲学の継承と体系化」
 根井康之著・農山漁村文化協会
▽「西田哲学の世界―あるいは哲学の転回」
 大橋良介著・筑摩書房
▽「歴史的現実と西田哲学―絶対的論理主義とは何か」
 板橋勇仁著・法政大学出版局
▽「西田哲学の再構築―その成立過程と比較思想」
 平山洋著・ミネルヴァ書房
○「西田哲学批判―高橋里美の体系」
 野辺地東洋著・大明堂
▽「ホワイトヘッドと西田哲学の“あいだ”―仏教的キリスト教哲学の構想」
 延原時行著・法蔵館
○「西田幾多郎-無むムと感じる!-」
 大沢正人著・現代書館
▽「過程と実在〈1〉コスモロジーへの試論」
 アルフレッド・ノース ホワイトヘッド (著), Alfred North Whitehead (原著), 平林 康之 (翻訳) ・みすず書房
▽「過程と実在〈2〉コスモロジーへの試論」
 アルフレッド・ノース ホワイトヘッド (著), Alfred North Whitehead (原著), 平林 康之 (翻訳) ・みすず書房
○「相対より絶対へ―仏教の現代的理解のために」
 大野整一著・惺惺塾
▽「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」
 南直哉著・講談社
▽「道元入門」
 秋月龍著・講談社
▽「鈴木大拙」
 秋月龍著・講談社
▽「相対主義の極北」
 入不二基義著・筑摩書房
○「ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか」
 入不二基義著・日本放送出版協会
▽「ホワイトヘッドの哲学」
 中村昇著・講談社
▽「知の教科書 論理の哲学」
 飯田隆編集・講談社
▽「「無常」の哲学―ダルマキールティと刹那滅」
 谷貞志著・春秋社
○「ブッダの哲学―現代思想としての仏教」
 立川武蔵著・法蔵館
▽「徳一と最澄―もう一つの正統仏教」
 高橋富雄著・中央公論社
▽「無の探求「中国禅」―仏教の思想〈7〉」
 柳田聖山著・梅原猛著・角川書店
▽「絶対の真理「天台」―仏教の思想〈5〉」
 田村芳朗著・梅原猛著・角川書店
▽「法然対明恵―鎌倉仏教の宗教対決」
 町田宗鳳著・講談社
▽「仏教講義―根本仏教と大乗仏教の会通を語る」
 増谷文雄著・佼成出版社
▽「中論」改訂版
 ナーガールジュナ(竜樹尊者)著・西嶋(愚道)和夫訳・金沢文庫
▽「根本的な中論の歌―釈尊の教えは実在論である」
 ナーガールジュナ著・西嶋和夫翻訳・金沢文庫
▽「大乗仏典」
 長尾雅人責任編集・中央公論社
▽「無心ということ」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅とは何か」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅」
 鈴木大拙著・ちくま文庫
▽「禅と唯識―悟りの構造」
 竹村牧男著・大法輪閣
▽「唯識思想論考」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む」
 横山紘一著・春秋社
▽「大智度論講述」
 宇野順治著・永田文昌堂
▽「大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ」
 山口益著・大法輪閣
▽「唯識の探求 『唯識三十頌を読む』」
 竹村牧男著・春秋社
▽「講座・大乗仏教 大乗仏教とその周辺」
 春秋社
□大乗仏典・中公文庫 1
 般若部経典・金剛般経
□大乗仏典・中公文庫 2
 八千頌般若経Ⅰ
□大乗仏典・中公文庫 3
 八千頌般若経Ⅱ
□大乗仏典・中公文庫 7
 維摩経・首楞厳経
□大乗仏典・中公文庫 8
 十地経
□大乗仏典・中公文庫 12
 如来蔵系経典
□大乗仏典・中公文庫 14
 龍樹論集
□大乗仏典・中公文庫 15
 世親論集

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

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