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川口英俊の晴耕雨読ブログ

七、悩み・苦しみを超えて

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
四、唯識論について・下・2
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・上
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・下
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

七、悩み・苦しみを超えて

 さて、前作「佛の道」もお読み頂きました皆さんは、ある程度気づかれたことであると思いますが、前回は初期仏教の学びからの仏法の真理の理解を中心として、今回は大乗仏教(特に唯識論)の学びからの仏法の真理の理解を中心として、書かせて頂きました。

 初期仏教も大乗仏教も共に涅槃寂静を目標として、諸行無常・諸法無我の真理の理解を進めていくわけですが、ただ目標へのアプローチの仕方に少し相違があるだけで、どちらが優れている劣っているということはないと考えています。

 あえて述べさせて頂くとすれば、「無我」へのアプローチについて、唯識論は、かなり理論化されている印象を受けたものの、その分、理解するのが結構難解であるとも感じました。

 また、初期仏教から改めて仏教の学びを進めて、それから大乗仏教の学びも進めてみると、ある程度理解が進みやすかったという感じでもあります。もちろん、所詮はまだまだ浅学非才の未熟者の感想なのですが・・

 さて、とにかく今回の内容によって、この色々と虚妄分別してしまっている世界に過ごす中において、物事の見方が、今までと比べて少しでも変わったとすれば、誠に嬉しいことであります。

 もしも今回の内容で、少しなりとも心が安らかに、清らかになって頂けたとして、そのことを比喩的に述べるとするならば、例えば誰もがその気になれば、すぐに出会うことができる産まれたての純粋無垢《むく》な赤ちゃんと触れ合った時に感じるような、そんな心の安らかさ、心の清らかさと似ているのではないかと思います。

 なぜならば、純粋無垢な赤ちゃんは、私たちよりも遥かに「我」が無く、欲・渇愛・執着が少なく、私たちが色々と分別して作り出してしまっている言葉も知らないですし、もちろん、虚妄分別することからも離れているからであります。当然に、私たちが何も分からないままに、普段抱えて悩み苦しんでいるような二項対立・二元対立の矛盾も何も関係ありません。

 純粋無垢な赤ちゃん、そのような存在に出会った時に感じる、誠に何とも言えない不思議な安らかさ、清らかさ・・もちろん、それはまぎれもなくかつての自分自身も経たことのある、もはや忘れ過ぎ去ってしまった過去なのであります。いや、そのかつての純粋無垢な自らの心にフッと戻ったために、安らかさ、清らかさを覚えるのかもしれませんね。

 また、その純粋無垢な赤ちゃんを慈悲の心でいつも優しく守っている母親のような存在が、「仏法」であると例えることができるのではないだろうかと僭越ながらも考えております。誠に「仏法」は有り難きでございます。

 とにかく悩み煩ってしまって苦しむことを無くし、確かなる安楽な涅槃へ向けて、しっかりと仏道の歩みを一歩一歩進めて参りましょう。

・・第八章に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2008 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserve

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六、一枚の半紙から・補足余談

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
四、唯識論について・下・2
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・上
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・下
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

六、一枚の半紙から・補足余談

 さて、少し話を身近なところに戻してみたいと思います。私は現在、書道を習いに教室に通っていますが、習い始めた頃、普通に文房具店で市販されている一枚一~二円ほどの半紙で練習していた時に、先生から、「その紙では裏のザラザラの部分で書きなさい」と指導を受けて、当初はかなりそのことに抵抗がありました。

 なぜなら、これまで、半紙はツルツルの部分が表で、そこに書くことを当たり前と考えていたからであります。つまり、半紙に書くのは、ツルツルの部分が表で、ザラザラの部分は裏ということが、当然に正しいと思い込んでいたからであります。

 しかし、先生は、その半紙では、確かにツルツルの表で書くことで、綺麗に見せることができるが、筆が滑りやすいことと、その書かれた文字を見るだけでは、正確な筆遣いの技量をなかなか推し量ることができないということで、練習、正確な指導のためにも、その半紙では裏のザラザラの部分で書きなさいという趣旨で、そう言われたのでありました。

 そうこうしているうちに、しばらくして、練習・清書用共に、一枚五円ほどする半紙を常用することになりましたが、その時にようやく先の半紙でザラザラの裏で書いていたことについての抵抗が無くなったのであります。その半紙の表はまさに先の半紙の裏と同じような感じでの書き具合となり、また、作品として条幅などに書く半切などの紙も同様の書き具合だったからであります。なるほど、先生の指導は理にかなったことだったのかと改めて気づいたのであります。

 さて、この話題で何が言いたいのかといいますと、やはり「正しい」という思い込みであります。表と裏も単に思い込みで、こちらが表で正しい、こちらが裏で正しいとしてしまって固執していたために、裏で書きなさいと言われたことで、抵抗が生じてしまったわけであります。また、もしも先生の言うことを聞いていなかったら、上達が遅れていたかもしれないということであります。

 このように、普段私たちが「正しい」としていることには、施本「佛の道」の中でも何度も出て参りましたフレーズ「主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素」、つまり「我」が大きく関係してしまっているということであります。

 仏教的に説明しますと、「諸法無我」において、諸行無常なる中、固定した実体としての「我」はどこにも無いのに、我に囚われてしまって「我執」してしまえば、主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素が顔を出して、表・裏も勝手に世間の常識、自分の主観・偏見・都合でこちらが表で正しい、こちらが裏で正しいとして執着し、妄執して迷い苦しんでしまうことがあるのであります。本当はたった一枚の紙について、表も裏も私たちが勝手に恣意的に判断しているだけということでもあります。そういった虚妄分別、妄想はしっかりと捨てなければならないというわけであります。

 こういう何気ない日常のことでも、気を付けていると「諸法無我」の理解が及んでいくのであります。

 皆さんも普段の生活の中での「気づき」を常に大切にして、真理に一つ一つ目覚めていけるようにして参りましょう。

・・第七章に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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五、一枚の紙から・②而二不二・下

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
四、唯識論について・下・2
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・上
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・下

 このように、皆さんに用意して頂いた紙で、書いた文字のモノも、書いたその文字、その書いた文字の紙、その紙について表だ裏だと虚妄分別してしまったことも、更には書いた己でさえも、ただ「縁起空」で、実は「無い」のであります。あらゆるものは、因縁生起という他に依存して、他によって生起しているということで、このことを依他起性と言うわけであります。

 また、禅語に「万法帰一《まんぽうきいつ》」という言葉がありますが、あらゆる全ては「縁起空」ただそれのみに帰するのだと考えることができます。

 そのことのあるがままを理解するためにも、「我・主体・主観」など自我に執着している自我意識、我執を無くして、自他分別を無くし、更に虚妄分別を無くして、この世のあらゆるものを平等に、実相のそのままを観じ察するようにしていかなければならないのであります。

 さて、これまで考察して参りましたように、虚妄分別したものには、実は分別は無い、ただあらゆるものは、空(縁起空)・真如のみということを円成実性と言うわけであります。

 簡単に述べると、この世におけることで分別は無い、できないということを「而二不二」と言うわけですが、唯識論では、「不即不離」「不一不異」と表されたり、般若心経では「不生不滅」・「不垢不浄」・「不増不減」と言う表現で出てきていますし、同様に「煩悩即菩提《ぼだい》」、「生死即涅槃」とも表現することもあります。また、このことは、鈴木大拙氏・「即非の論理」、更には西田幾多郎氏・「絶対矛盾的自己同一」にも通じるところではないかと考えております。

 しかし、これらのことは理解するに際して、やはり十分なる仏法の真理についての思慮・考察、仏道修行の前提が必要になるものと考えております。

 また、これらの言葉を使って、分別の無いことを示しているつもりであっても、実はそれでさえも「無分別を分別」しているに過ぎず、本当のところはもう言葉では表現できないのであります。

 ですから「不○不×」や「○即×」という表現は、実はできない、表現していてもやむを得ずに、仕方なくそうしているだけであるというのが、正直なところであります。ではそれを、誠に不十分で僭越なことながらも、最大限にこの本で表してみると試みれば、















































 となり、白紙の紙に、どちらが表でどちらが裏ですかと聞かれても、答えられないことに近いものと考えています。

 また、このことを仏教的に述べさせて頂くとすれば、維摩経《ゆいまぎょう》に記述されている維摩居士(架空の人物とされている)と文殊菩薩様とでやりとりされた不二法門《ふにほうもん》の問答における、最後に維摩居士の回答の「一黙」、つまり黙って何も語らなかったこと、と同意であるとして便宜上、白紙の部分をやむなくにも、そう理解して下さいませ。この維摩居士の一黙は、「維摩の一黙、雷の如し」と称されています。

 維摩経は、架空の物語とされていますが、維摩居士を主人公として、お釈迦様の十大弟子たちとのやりとり、文殊菩薩様とやりとりした問答などが主に記されています。大変に興味深い内容ですので、機会がありましたら是非、専門書・解説書をお読み下さいませ。

 さて、前回の施本でも述べさせて頂いておりましたように、あとは、それぞれにおける四法印・四聖諦の真理の真なる理解、八正道、戒・定・慧の三学、八大人覚《はちだいにんがく》(少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戯論)、五根五力(信・精進・念・定・慧)、七覚支《しちかくし》(念・択法《ちゃくほう》・精進・喜・軽安・定・捨)、六波羅蜜、更には六波羅蜜に「方便(間接的な方法で智慧を開発させること)・願(仏道の成就を誓願し、実践努力すること)・智(一切を見通す智慧を得ること)・力(善行を実践する力・真偽判別力を養うこと)」の四つも加えられた「十波羅蜜」などの確かなる学び・実践によってこそ、表現できないところのことも含めて真に正覚し、智慧を開発していかなければならないものであると考えております。共に精進努力して参りましょう。

 また、この浅学非才、未熟なる者のこの内容においてでも、少しでも読者の皆さんの迷い苦しみが無くなって、心が安らかに、清らかになって頂けたとすれば、誠に幸いでございます。

・・第六章に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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五、一枚の紙から・②而二不二・上

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
四、唯識論について・下・2
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・上

 さて、ここで話を一枚の紙に戻しますが、私たちがいつも分別しているものは、虚妄であり、分別は無い、つまり、「二なるものが無い」ということで、二つに分別しているものは、実は二つでは無い、つまり「而二不二」の理解に及んでくるわけでありますが、このことを「一枚の紙」で改めて考えてみたいと思います。

 まず私たちは、「我・主体・主観」によって様々に認識・判断した存在に対して「名称」を付けています。

 皆さんの目の前にあるもの、鉛筆・ペン・パソコン・テレビ・本など何でもいいでしょう、それをその紙に書いて下さい。

 では、まずは鉛筆・ペンなどと書かれた文字のモノについてでありますが、第二章でも述べさせて頂きましたように、そのものには諸行無常・諸法無我なる中で固定した実体としての「我」は無いため、そのモノは常にあるものではありません。例えば、その鉛筆・ペンが百万年後にもありますかと問うと、特殊保存していない限りは、誰もがもう無いと答えることでありましょう。もちろん無常なる中、そのモノを構成している分子・原子・中性子・素粒子は因縁生起によって生滅変化を繰り返しているため、瞬間においてさえも刻々と無くなっていってしまっています。ですから、私たちが存在に対して名称を与えているのは、あくまでも変化しているモノについて私たちが仮に与えた名称なのであります。このことを唯識論では「仮名《けみょう》」と言います。書いたそのモノは、単に仮にそう名称しているにすぎないものであるため、本当のそのモノ、存在の対象について、実は言葉・文字では表すことができないのであります。ですから、書いた文字の存在対象は「無い」のでありますが、そのことが分からずに存在対象、我があるとして執着してしまうことを「遍計所執性《へんげしょしゅうしょう》」と言うわけであります。

 次に、「表と裏」をどちらか決めて下さいと言うと、ある人は書いた文字のある方が表、文字の無い方を裏として、ある人は、その逆としても分別することでありましょう。表裏の分別が生じ、または、文字のある方、無い方という有無の分別も生じます。

 本当は表も裏もどちらがどちらとは言え無いのですが、「我・主体・主観」によって、こちらが表、こちらが裏というように、それぞれの我によって勝手な分別が生じてしまいます。

 もちろん、表と裏を我によって分別したのは、単に虚妄で、本当はどちらがどちらとは言え無い、やはりただの一枚の紙であって、「分別した二なるもの」は、「二つで無い」一枚の紙で、つまり「而二不二」なのであります。

 また、表、裏と分別したとしても、実はその中間についても、もちろん無視することはできません。例えば、皆さんの手元にあるその一枚の紙では、表でも裏でもない一ミリメートルにも満たない「厚さ」の部分があります。このように本当のところ、二項対立・二元対立は極端に分別することはできず、必ずその間もあるわけであります。白と黒では間に灰色があるように、パッといきなり対立が分かれてあるのではなくて、二項対立・二元対立は、実は対立関係にあるものではなく、ただ縁起空の連続について、ただ仮に「我」によって、そのようになってしまっているだけなのであります。

 つまり、ただ連続している縁起空があるだけなのに、ある一点に「我」と「執着」が生じてしまうと、そこを基準として囚われて虚妄分別が始まり、これが私、それがあなたに始まって、これが表、その逆が裏、これが楽、ではその逆が苦、これが正、その逆が邪というようになってしまうのであります。

 このように極端な側には立たずに、分別してしまったことでも、その中間に立ってみて、今一度、妄想・虚妄で分別したものが、実は一つのものであることに気付いていけるようにしていけば良いと思います。そうすると、二項対立・二元対立は矛盾しているものではないと分かって苦しむことも無くなるでしょう。

 ただし、最終的には、その中間でさえも「空(縁起空)」ということで、中間ですらも無いのだということも理解できるようにしていかなければならないのであります。

・・第五章・下に続く・・

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四、唯識論について・下・2

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・下・2

前五識・・成所作智《(じょうしょさち》

 所作を成ずる智慧で、大中小の随煩悩に惑わされることが無くなり、心・口・意の三業が清浄に保たれるようになったこと。

意識・・妙観察智《みょうかんさっち》

 根本煩悩である貪・瞋・痴・慢・疑・悪見を滅し、この世のあらゆることに対しての虚妄分別が無くなり、実相のそのままを観じ察することができるようになったこと。

末那識・・平等性智《びょうどうしょうち》

自我に執着している自我意識、我執を無くし、我見・我痴・我慢・我愛の四つの根本煩悩を滅して、自他分別が無くなり、この世のあらゆるものを平等に識できるようになったこと。

阿頼耶識・・大円鏡智《だいえんきょうち》

 あらゆるもののあるがままの真理が、あるがままにそのままくっきりと鏡のように識に映るようになり、あらゆるものをそのままに識できるようになったこと。言葉ではもはや表現できない智慧の境地でもあります。

 もちろん、これらの智慧を得ていくためには、しっかりと仏法を学び、修行を一歩一歩進めて、全ての煩悩を滅していかなければなりません。共に頑張って、涅槃へ向けて精進努力して参りましょう。

 また、真言宗におきましては、第八識の次に第九識「阿摩羅識《あまらしき》」(如来蔵識《にょらいぞうしき》とも言われ、その智慧は法界体性智《ほっかいたいしょうち》とされている)、更には第十識もあるとして唯識論を展開する場合もあります。

 真言宗におきましては、それぞれの智慧について、如来様方で顕されてもいます。

五智如来《ごちにょらい》

大日如来《だいにちにょらい》・・法界体性智
阿しゅく如来《あしゅくにょらい》・・大円鏡智
宝生如来《ほうしょうにょらい》・・平等性智
阿弥陀如来《あみだにょらい》・・妙観察智
不空成就如来《ふくうじょうじゅにょらい》・・成所作智

 諸宗におきましても唯識論における解釈には諸説あります。唯識論の真なる理解につきましては、私もまだまだであり、今回はあくまでもほんの触りでの紹介の域でありまして、私も、皆様方それぞれも、確かな学びの進めが当然に必要であると考えておりますので、誠に宜しくお願い致します。

・・第五章・上に続く・・

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四、唯識論について・下・1

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
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三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
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七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・下・1

 そのための修行過程について唯識論では、五段階に分けられています。

第一段階・・思糧位《しりょうい》

仏法の真理、唯識論の学びを進めようと発起し、仏法を自分の向上に役立たせていこうとする段階。仏道の初歩の準備段階。

第二段階・・加行位《けぎょうい》

 仏法の真理、唯識論を更に学び進めて、完全に自分のものにしていきながら、また、学んだ理論に拠るだけでは無く、行為(八正道、六波羅蜜、慈・悲・喜・捨、善行・徳行の実践など)も伴わせていく段階。理論と実践を平行させて進めていく段階。

第三段階・・通達位《つうだつい》

仏法の真理、唯識論の真理を完全に自分のものとして理解したところに達した段階。自分自身、あらゆるものの空性(縁起空)の真実に気づき達した段階。ただし、これはまだ悟りのほんの入り口に過ぎないところであり、慢心を起こし、「我」が顔を出すと、元の木阿弥になることに気をつけなければならない段階とされています。正直、この第三段階からは、具体的に言葉ではなかなか十分に表せない境地でもあります。

第四段階・・修習位《しゅじゅうい》

 仏法の真理が、そのまま現身に修養した段階。もはや「我」が完全に顔を出すことが無くなった段階と言えるのではないかと考えます。

第五段階・・究竟位《くきょうい》

仏道修行の究極最終境地の段階。正直、もはや言葉では到底表すことができない段階と考えます。この境地を目指して、しっかりと精進努力して参りましょう。

 また、その具体的な修行方法につきましては、六波羅蜜《ろくはらみつ》としてまとめられているものがあります。

六波羅蜜

布施波羅蜜《ふせはらみつ》

 貪る心・執着(我執・愛執)の心・所有の心を無くしていくために、財物を施す財施《ざいせ》、悪感情・煩悩を静めて安心を与える法施《ほうせ》、仏法の真理を説いて修行を実践する無畏施《むいせ》を行なっていくこと。
 
持戒波羅蜜《じかいはらみつ》

 戒律をしっかりと守ること。心・口・意の三業を清浄に保つために定められた戒律を遵守することで、五戒律として、不殺生戒《ふせっしょうかい》(生き物をみだりに殺さないこと)・不偸盗戒《ふちゅうとうかい》(他人の物を盗まないこと)・不邪淫戒《ふじゃいんかい》(よこしまな男女関係・不倫をしないこと)・不妄語戒《ふもうごかい》(虚偽を語らないこと)・不飲酒戒《ふおんじゅかい》(お酒を飲まないこと)があり、更には、もう五つを加えて十戒律とする場合もあります。不説四衆過罪《ふせつししゅうかざい》(他人の過失や罪を言いふらしたりしないこと)・不自賛毀他戒《ふじさんきたかい》(自画自賛し、他人を見下したりしないこと)・不慳貪戒《ふけんどんかい》(自分の利を貪ったり、物惜しみをしないこと)・不瞋恚戒《ふしんにかい》(激しく怒らないこと)・不謗三宝戒《ふぼうさんぽうかい》(仏法僧の三宝を誹謗中傷しないこと)。

忍辱波羅蜜《にんにくはらみつ》

瞋恚《しんに》(激しい怒り)の心を出さないように、常に心を寛容にして平穏に保つために、仏道を歩む中で、例えどんなに嫌なつらいことがあっても耐え忍ぶこと。

精進波羅蜜《しょうじんはらみつ》

 なまけおこたる心を出さず、涅槃へ向けて一生懸命に修行に取り組むこと。

禅定波羅蜜《ぜんじょうはらみつ》

 坐禅や瞑想修行にて精神統一・精神安定を図ること。禅定の段階には諸説ありますが、基本としては、止(心を統一して止めること・三昧《ざんまい》とも言う)と観(無常・無我の真理をありのままに捉える)からなっています。

智慧波羅蜜《ちえはらみつ》
 
 智慧を開発していくこと。智慧は、真理を悟ったものにもたらされる心の働きのこと。真理の実相から全く揺らぐことがなくなった心の働き。智慧は、般若《はんにゃ》とも表されます。智慧は、既にもはや己のいかなる内面におけることも、己の外面におけるいかなることも、真理の実相の理解によって、常に涅槃寂静へと導くことができるように全てが調った、静かで落ち着いた心の働きであると考えます。
 
次に、唯識論においては、真理の理解と修行段階が進み、煩悩が無くなると、「識」が「智慧」に転じて現われてくるようになり、このことを転識得智《てんじきとくち》と言い、前五識・意識・末那識・阿頼耶識のそれぞれにおいて智慧への転換が示されます。

・・第四章・下・2に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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四、唯識論について・中・2

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・中・2

 その前に、唯識論においては、無分別が説かれるわけですが、ここで挙げられるのは、仏法の真理においての何が善か、何が不善かについて、唯識論において定義されている善についてであります。不善は煩悩による悪業となることで、本論では、わかりやすくするために、不善=悪として記述しております。

 ここで、善・悪は無分別だとして、早計に善悪関係ないとしてしまえば、もう仏法を学ぶ意味が全く無くなり、それは享楽主義・快楽主義、または悲観主義・虚無主義など極端な偏ったところに陥る可能性もありますので、中道からも外れてしまうため、非常に気をつけなければなりませんし、涅槃への道のりが遙か遠いものになってしまいます。

 実はここのところは、誠に注意しなければならないところなのであります。

 仏法の真理は、文字や教典では本当は表せないということなので、禅宗が特に重んじる不立文字《ふりゅうもんじ》・教外別伝《きょうげべつでん》・直指人心《じきしにんしん》ということなのでもあります。

 ですから仏教、本論においても扱っております唯識論における善・悪は、中道としての立場、何ら偏りの無い、何ら差別の無い、何ら囚われの無いところから、あくまでも苦しみ・迷いを無くすために便宜上、そのように分けているだけであり、もちろん私たちはしっかりと仏法の真理を学び、仏法を拠りどころとして、悪をなさず善を行なわなければなりません。

 また、このことに関わることは、「無分別の分別」として、第五章で扱っておりますので、そちらもご参照下さいませ。

十一善

信(縁起の理《ことわり》を理解して信じること・徳ある仏法僧の三宝を信じること・己に善を行なう力があることを信じること)・慚《ざん》(己の内なることの恥じについて反省すること)・愧《ぎ》(己の外なることの恥じについて反省すること)・無貧(むさぼらないこと)・無瞋(激しく怒らないこと)・無痴(仏法の真理を学び愚かさを無くすこと)・勤(善行につとめはげむこと)・安(安らかな心でいること)・不放逸(なまけないこと)・行捨(かたよらない・平等で素直な心でいること)・不害(害さないこと)。

 次に、私たちが苦しんでいる煩悩についてでありますが、大別すると「根本煩悩」・「小随煩悩」・「中随煩悩」・「大随煩悩」としてまとめられています。

根本煩悩

 まず、先に挙げさせて頂きました未那識における四つの煩悩である「我見・我痴・我慢・我愛」に、前五識・第六識における煩悩としての貪《とん》(むさぼり)・瞋《しん》(激しい怒り)・痴《ち》(愚かさ)・慢(高慢・傲慢)・疑(真理の理解を躊躇《ちゅうちょ》している。真理についての疑い)・悪見(真理に対して間違った見解・理解)。

 また、慢には、七つあるとして、詳しく述べていきますと、慢(自分より劣った者に対して、自分は優れていると慢心すること、自分と同等である者に対して、同等であると慢心すること)・過慢(自分と同等である者に対して、自分の方が優れていると思い高ぶり慢心し、自分より優れている者に対して、同等であるとあなどって慢心すること)・慢過慢(自分より優れている者に対して、自分の方が優れているとうぬぼれて慢心し、他を見下す慢心のこと)・我慢(自分に執着し、自分は一番だと自惚れる慢心のこと)・卑下《ひげ》慢(自分より優れている者に対して、自分は少ししか劣っていないと慢心すること)・増上《ぞうじょう》慢(自分はまだ悟りを得ていないのに、悟りを得たとおごりたかぶる慢心のこと)・邪慢(自分に徳がないのにも拘らず、あると思って、自分は偉いと誇る慢心のこと)。

 また、悪見についても、詳しくは五つあり、薩迦耶見《さつがやけん》(我見・我執・自己中心的なものの見方)、辺見(極端に固執したものの見方)、邪見(仏教の法理、特に因縁生起の法則などを否定するものの見方)、見取見(自分の見方が絶対的に正しいと執着したものの見方)、戒禁取見(仏法で定められた戒律を破り、間違った見解の戒律を正しいものとして固執したものの見方)。

小随煩悩

 忿《ふん》(いかりを出すこと)・恨(うらみ)・覆(自分の不利益なことを隠すこと)・悩(悶々《もんもん》と気に入らないことに悩むこと)・嫉《しつ》(嫉妬)・慳《けん》(物惜しみするケチなこと)・誑《おう》(自分の利益のために人をあざむくこと)・諂《てん》(自分の方に気を向けるためにだましへつらうこと)・害(害すること)・驕《きょう》(おごりたかぶること)。

中随煩悩

 無慚《むざん》(仏法に照らして自分の内なることにおける己の恥じについて反省することがないこと)・無愧《むぎ》(自分の外なることからにおける己の恥じについて反省することがないこと)。

大随煩悩

 掉挙《じょうこ》(心が昂ぶって平静さを失っていること)・昏沈《こんちん》(心が重く沈んでいること)・不信(真理を信じないこと)・懈怠《けたい》(おこたること)・放逸《ほういつ》(なまけること)・失念《しつねん》(大切なこと、真理についての気づきを忘れてしまうこと)・散乱(心がみだれて落ち着きがないこと)・不正知《ふしょうち》(真理を間違って知ること)。

 これらたくさん挙げました迷い苦しみの原因である煩悩を、仏法の真理の理解を行なっていきながら、しっかりと無くしていき、あるがままをあるがままに受け入れていく心、善行を自然に行なえる平安で清浄なる心を養い、もう煩悩に苦しむことの無い、安楽なる涅槃を目指して、日々精進努力をしていかなければなりません。

・・第四章・下・1に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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四、唯識論について・中・1

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・中・1

 次に、これら三つの能変によって、では、この世の存在をどのように認識しているのか、ということについては、三性《さんじょう》として説明されます。
   
三性

遍計所執性《へんげしょしゅうしょう》・・存在におけるあまねく全ての表象について、虚妄分別したものの「我」に執着してしまうこと。または執着できるものだとして、勘違いしてしまっていること。

依他起性《えたきしょう》・・この世のすべての存在が、他の何かを縁(因縁生起)として、はじめて成立しているということ。存在の「空性」(縁起空)・「無自性」のこと。

円成実性《えんじょうじっしょう》・・依他起性をそのまま依他起性として正覚して(空性(縁起空)・無自性の正覚)、遍計所執性(虚妄分別)を離れること。

 「諸法無我」の法理によって、遍計所執性においては、「我・主体・主観」によって感受した、他のものに対しての認識・判断には、当然に固定した実体としての「我」は無いので、その存在は、「無自性・無存在」として(都無《とむ》・実無)、依他起性においては、存在について、ただ「空」(縁起空)として(仮有《けう》)、このことを理解した上で、では、この世の存在の真実(実有《じつう》)は何であるのかについて、「無自性・無存在」・「空」(縁起空)が、この世の存在の真実として、そのことを「円成実性《えんじょうじっしょう》」と表しています。円成実性は「真如《しんにょ》」とも言われます。

 さて、ここで少し補足でありますが、先に挙げました薫習は、特に四薫習に分けて説明されます。

無明薫習・・無始なる過去世からの無明の薫習のこと。真如に薫習して、その薫習によって妄心が生じること。

妄心薫習・・妄心がまた無明に薫習して不了《ふりょう》(不完全)の種子を増やすことになって、妄境界(輪廻する世界)に現われ出ること。

妄境界薫習・・妄心を薫習して、妄境界(輪廻する世界)・虚妄分別の世界において、またも悪業を生み出して、煩悩を抱えて苦しむこと。

浄法薫習・・真如薫習と妄心薫習の二つがあり、真如薫習は、迷い・苦の中で、何とか逃れたいと真如を求めて発心し、仏道を実践し、涅槃を目指して精進努力を始めること。また、この場合の妄心薫習とは、真如を求める妄心が、更に真如に薫習し、無明・煩悩を滅して、涅槃へと向かうように調っていくこと。

 また更には、薫習の条件として、「所薫の四義」(薫習される所について)と「薫能の四義」(薫習の働きについて)が説明されます。

所薫の四義・・堅住性(永続的に同時存在性を保持する性質)・無記性(善でも悪でもない無記の性質)・可薫性(薫習が可能であるという性質)・能所和合性(能薫と所薫とは一体和合しているという性質)

薫能の四義・・有生滅(生滅変化を有する働き)・有勝用(善・悪についての強い方向性をもっているという働き)・有増減(薫習に増減の余力があるという働き)・能所和合転(所薫と和合して転ずるという働き)

 次に、八識と八識のほかにおける一切の存在については、「五法事理」として大きく五つに分けて説明されています。その中で、無為法以外は「依他起性」に属し、無為法は「円成実性」に属しているとされます。

心法・・心が全ての諸法・存在の中心主体であるとして、前五識・意識・未那識・阿頼耶識の八識が属する。心の中心体として「八識心王」とも言われる。

心所法・・心法による識の働き・作用のこと。遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定《ふじょう》に分けられて、そこから更に細かく心所が分けられています。

色法《しきほう》・・心法・心所法から物質的なものとして識されたもののこと。

心不相応行法《しんふそうおうぎょうほう》・・心法・心所法・色法でないもののこと。

無為法《むいほう》・・前四法の実性のこと。現象の本質ともいうべき真如のこと。

 次に、私たちがしなければならない善行為について記しておきたいと思います。

・・第四章・中・2に続く・・

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四、唯識論について・上

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・上

 大乗仏教における認識体系論、または仏教の深層心理学論とも称される唯識論でありますが、もちろんその語の如く、この世はただ「識」別(作用がある)のみという意味であります。

 まず、その「識」の段階を基本的に八つに分けて考えます。

八識

前五識・・人間の感受・感覚としての五感、つまり眼・耳《に》・鼻・舌・身における眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(皮膚感覚・触覚など)。

意識・・自覚的意識のこと。前五識と合わせて六識とも言う。第六識。

末那識《まなしき》・・無意識の領域で、無意識ながらも自我に執着している自我意識のこと。末那識は、非善非悪の「無記《むき》」とされていますが、我に関する根本煩悩を抱えているために、障りを抱えて心を不浄にしてしまうものとして、「有覆無記」と表されます。第七識。

阿頼耶識《あらやしき》・・末那識の更に深層にある領域で、人間の根本・根底意識のこと。生命根源の「識」。第八識。阿頼耶識は、末那識と同様に「無記」なものですが、末那識のような障りは抱えていないため、区別されて「無覆無記」と言われます。なぜならば、阿頼耶識が善であれば、私たちは現行で悪業を行うことがないはずですし、逆に阿頼耶識が悪ならば、どんなに仏道に精進しても、涅槃に至れず、永久に煩悩を抱えて、苦しみ続けてしまうからであります。更には、阿頼耶識は善・悪の業の種子《しゅうじ》を受け入れる(薫習《くんじゅう》される)場所であるため、例えば阿頼耶識が悪であれば、善業の種子を受け入れなくなってしまい、いくら仏道を実践しても永久に煩悩を滅することができず、涅槃に至ることができなくなってしまうからでもあります。種子・薫習については、これからの内容の中で詳しく説明致します。

 そして、この第八識である阿頼耶識が、前五識、意識、末那識を生み出している根本として、自己とこの世の全ての存在について「識」している元のところとされています。

 更には、前五識、意識、末那識において「識」し、思考・想像・言行したものが、阿頼耶識に「種子《しゅうじ》」としてたくわえられ、その種子には二種類あり、名言《みょうごん》種子と業種子《ごっしゅうじ》があり、名言種子は、前五識・第六識・第七識において言葉を用いた概念・思考・想像によって薫習《くんじゅう》された種子のこと。善因善果・悪因悪果、無記《むき》因無記果(善でも悪でもない因果)を現行するため、因果が等しい流れであるので、このことを「等流習気《じっけ》」とも言います。

 業種子は、前五識・第六識・第七識・第八識の全てに影響を与える基となっている種子のことで、原因が善・悪であっても、阿頼耶識の中でたくわえられます。また、阿頼耶識においては、異なって熟されていくため、このことを「異熟習気《じっけ》」と表されます。

 また、種子には六つの条件があって、このことを「種子の六義」と言います。

種子の六義

刹那滅《せつなめつ》(刹那に生滅変化すること)・果倶有《かくう》(結果と同一に存在すること)・恒随転《ごうずいてん》(生滅が常に続くが性質はずっと保持していること)・性決定《しょうけつじょう》(善・悪・無記の因果性が決まること)・待衆縁《たいしゅうえん》(因縁によって現行すること)・引自乗《いんじか》(因果は同一の性質で引き継がれること)

 さて、種子が阿頼耶識にたくわえられていくことを「薫習《くんじゅう》」と言いますが、薫習とは、あたかも何かの香り(お香や香水など)が衣服に染み付くように、前五識、意識、末那識において「識」して思考・想像・言行したもの、更には思考・想像・言行を受けたことなどが、阿頼耶識にたくわえられるということであります。このことを「現行生種子《げんぎょうしょうしゅうじ》」と言います。

 そして、この阿頼耶識にたくわえられた色々な種子が、刹那滅しながら、また新たなる種子を生み出すことを「種子生種子《しゅうじしょうしゅうじ》」と言い、更には、種子が阿頼耶識から出て、意識、末那識・前五識に作用して外界の影響(因縁による影響)を受けて、また新たな種子が、阿頼耶識にそのまま薫習されるという繰り返しのことを「習気《じっけ》」と言い、更にまた、阿頼耶識における種子によって、この世における現象世界の事物が現れ出ることを「種子生現行《しゅうじしょうげんぎょう》」と言います。

 もちろん、この阿頼耶識でさえも、無常の例外ではなく、種子も刹那に生滅しつつ、薫習・習気され、異熟しています。その種子の集まりである阿頼耶識は、激流の如くに流れていると例えられています。

 更に、この阿頼耶識における種子の働きは、無始なる過去世からの輪廻、現世における現行、次の輪廻に深く影響しているとして説明されます。

 では、具体的に「識」によって作り出される、この世の現象世界の事物についての一連の働き、変化については、第一能変・第二能変・第三能変で示されます。

第一能変・・種子をたくわえる阿頼耶識において、あらゆる業(心《しん》・口《く》・意《い》の三業)の結果が、種子の様々な因縁によって、その結果が異なった形で熟し、新たな認識として生起して現行していくこと。このことを異熟《いじゅく》と言います。例えば、悪業を積み重ねて、その種子を阿頼耶識にたくわえても、その後に善業を重ねて、その善業の種子が阿頼耶識にたくわえられていけば、その因縁によっては、悪業による種子を浄化させて、先の悪業の結果も変わって熟していき、新たな認識の生起、現行をもたらすということです。この第一能変は、仏教における悪をなさず善を行ないなさいという善行奨励の理由として、輪廻についての説明でも理論的に補完されているところであると考えられます。また、先にも述べてありますように、阿頼耶識そのものは、善でも悪でもない「無記《むき》」なるものであります。

第二能変・・未那識における考え・思考のこと。思量《しりょう》とも言われる。この思量では、無意識においても常に自我意識をもたらし、自己執着(我執)して、特に四つの我についての根本煩悩にさいなまれている認識のこと。我見(自己は固定した実体としての存在があるとして、固執していること)、我痴(諸行無常・諸法無我などの仏法の真理を知らない愚かなこと)、我慢(自己について慢心していること)、我愛(自己に愛着していること)。もちろん、未那識は阿頼耶識によって強く影響を受けています。

第三能変・・前五識・第六意識における認識作用。了別《りょうべつ》と言う。眼・耳・鼻・舌・身・意によって、それぞれ対象である色・声・香・味・触・法を認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のこと。ただし、意識は、前五識とはやや異なり、前五識の情報を受けて、すべての事物(現在・過去・未来を含めて)について認識・判断するものとして区別されています。もちろん、阿頼耶識は、前五識・第六意識に大きく影響しています。

・・第四章・中に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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感興のことば・第30章・51・52

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第30章・51・52

第30章 楽しみ

51 村において、林において、快感や苦痛に触れられた人は、それを自分のせいにしてもならぬし、他人のせいにしてもならぬ。迷いの条件に依存して、触れられる事物が触れるのである。迷いの条件の無い人に、触れられる事物の触れることがどうしてあろうか?

52 立派な人々は、いかなるところにあっても、快楽のゆえにしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、立派な人々は動ずる色がない。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

51 村において、林において、快感や苦痛(快・不快、苦の対象)に触れられた人は、それを自分のせいにしてもならぬし、他人のせいにしてもならぬ(諸法無我、無執着・無束縛・無所有)。迷いの条件(無明、四法印・四聖諦を理解できず愚かなまま)に依存して、触れられる事物(対象)が触れ(て渇愛・執着、所有・束縛が生まれ)るのである。迷いの条件(渇愛・執着、所有・束縛)の無い人に、触れられる事物(対象)の触れることがどうしてあろうか(苦しみから解脱している)?

52 (真理を悟った)立派な人々は、いかなるところにあっても、快楽のゆえにしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても(無執着・無束縛・無所有で苦・楽を超えていて)、立派な人々は動ずる色がない。

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