川口英俊の晴耕雨読ブログ

一枚の紙から・仏教の基本法理の理解

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下

 もちろん、なぜこの世における存在が、不安定なのかと言いますと、私は宇宙物理学の専門家ではありませんので、あまり詳しく述べることはできませんが、宇宙の始まりに起因していると言えます。

 宇宙の始まりでは、無の(量子論的)空間にゆらぎが生じ、無の空間のバランスが崩れ、物質と反物質の対発生と対消滅にアンバランスさが生じたことによって、ビッグバンが起り、宇宙が始まったと現在のところ言われています。

 本来は、物質と反物質の対発生と対消滅にアンバランスさが無ければ、今日の宇宙にあるような様々な物質も現象も、実は何もなかったのであります。その宇宙誕生のアンバランスさから、今でも、分子・原子・中性子・素粒子の単位でもめまぐるしく引っ付いたり離れたり、エネルギーとなって消滅したりしている中にあるのであります。しかし、ここであまりそのことを扱いますと話が相当に脱線してしまいますので、最終的には宇宙物理学・量子物理学による更なる解明を待ってみましょう。

 とにかく、私たちの苦しみの原因は、あらゆる現象・存在の無常という不安定さによって、何とかしてでも、それを安定させよう、変化を止めよう、永遠なものにしよう、永久に変わらないものにしようとして、渇愛・執着してしまうところに生じているのであります。

 そして、諸行無常・諸法無我・一切皆苦の法理をしっかりと理解することによって、迷い苦しみの原因となる煩悩を滅して、安らかな悟りの境地を得ることを「涅槃寂静《ねはんじゃくじょう》」と表し、これら四つの法理を仏教の基本法理として「四法印《しほういん》」と言うのであります。

 さて、話を「紙」に戻しましょう。今そこにある「紙」について、色や形状が変わったりすることが、それぞれの眼に見えようが見えまいが、分かろうが分かりえないかは全く関係なく、実は瞬間、瞬間に因縁生起によって変化しています。

 そのために、「これがこの紙」といくらその紙の「我」を探しても本当は、どこにも見当たらないのであります。その「紙」についての我執に囚われてしまうと、僅かな変化でさえも受け入れず、認めなくなってしまうことになり、不満、苦しみを抱えてしまうのであります。そのため、この「紙」と呼んでいるものは、永遠なるもの、永久なるものではない、常に変化しているものであるのだと、しっかりと理解しておけば、多少変わっていっても、滅していっても全く妄想、煩悩、苦しみは生じないのであります。もちろん、全ての存在、己自身でさえにおいても、このことは同様なのであります。

 さて、まずは、この「一枚の紙」で仏教の四法印について、私なりに簡単に説明させて頂きました。四法印、更に苦しみを無くす上で大切な教説である「四聖諦《しせいたい》」(苦諦・集《じっ》諦・滅諦・道諦)、八正道の詳しい説明につきましては、施本「佛の道」をご参照頂ければ幸いでございます。

・・第三章に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2008 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.

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感興のことば・第30章・45・46

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第30章・45・46

第30章 楽しみ

45 悩める人々のあいだにあって、われらは悩み無く、いとも楽しく生きて行こう。悩める人々のあいだにあって、われらは悩み無く暮そう。

46 他人を傷つける人々のあいだにあって、われらは人を傷つけることなく、いとも楽しく生きて行こう。他人を傷つける人々のあいだにあって、われらはひとを傷つけること無く暮そう。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

45 (煩悩を抱えて)悩める人々のあいだにあって、われらは(煩悩を無くして)悩み無く、いとも楽しく(安楽に)生きて行こう。(煩悩を抱えて)悩める人々のあいだにあって、われらは(煩悩を無くして)悩み無く暮そう。

46 (煩悩に蝕まれて)他人を傷つける人々のあいだにあって、われらは(煩悩を無くして)人を傷つけることなく、いとも楽しく生きて行こう。(煩悩に蝕まれて)他人を傷つける人々のあいだにあって、われらは(煩悩を無くして)ひとを傷つけること無く暮そう。

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一枚の紙から・仏教の基本法理の理解

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」


一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中

 あくまでも私たちが「紙」と呼称しているものは、単に「一過性の現象のこと」を指して言っているだけのことで、分子・原子・中性子・素粒子の単位では、瞬間、瞬間に生滅変化しているものであります。

 それは、もちろん、仏教用語で言うところの因縁生起《いんねんしょうき》(因縁・縁起)、因(直接原因)と縁(間接原因・条件)の二つの原因が、それぞれ関わり合って構成されているものであり、この因縁生起に従って生滅変化を繰り返し続けていることを、仏教の中でも特に大切な法理である「諸行無常《しょぎょうむじょう》」と言うのであります。

 読者の皆様方が、現在見ておられるこの施本の紙、ご用意して頂きました白紙の紙も、瞬間、瞬間で分子・原子・中性子・素粒子の単位で生滅変化を繰り返しているものであり、私たちは仮に、今のその存在における現象を「紙」と単に呼称しているに過ぎず、もっと仏教的に厳密に言えば、変化し続けているものには瞬間でさえも、そのものが「ある」とは言えないのであり、そのことを仏教では「諸法無我《しょほうむが》」の法理と言うわけであります。

 このように、私たちが言葉で普段使っている存在・現象への「名称」というものは、ほんの間、ただ私たちが仮に名付けているだけのものに過ぎないのであります。まずはこのことをしっかりと理解しておかなければなりません。

 前回施本「佛の道」では、私たち人間存在のことについて、色《しき》・受・想・行・識の五蘊《ごうん》で仮に和合しているものであるとして、その五蘊のいずれもが瞬間に変化し続けているため、どれが自分で、どれが自分のものだとすることも不可能であり、固定した実体としての「我」が成り立たないことを述べさせて頂きました。

 もちろん、全て私たちが呼称を与えている存在も、実は固定した実体としての「我」は同様に「無い」のであります。

 この「諸行無常」・「諸法無我」を理解していないと、私たちはその名称のものを「あるもの」として「我」を妄想してしまい、そこにほしいという渇愛《かつあい》、もっとほしいという執着が生じてしまって、そのものが少しでも変化したり、無くなり、滅したりすると、そのことを受け入れず、認めずに、それがそのまま迷い、苦しみになってしまうわけであります。

 このようにあらゆる存在、みずからの存在にでさえも「我」を妄想してしまって、「我執」を抱えてしまうことが、私たちの苦しみの原因であります。一切の存在は不安定であるために、「我執」、「妄想」によって「不満」が生じてしまっています。「妄執」・「我執」・「愛執」など、色々な執着をもたらす妄想のことを総称して「煩悩《ぼんのう》」と言いますが、このようにこの世におけるあらゆる存在・現象が不安定なことについて、諸行無常・諸法無我の真理を理解できないままに、悩み煩ってしまい、苦しむことを仏教では「一切皆苦《いっさいかいく》」という法理として表すのであります。

・・第二章、次に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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感興のことば・第30章・43・44

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第30章・43・44

第30章 楽しみ

43 貪る人々のあいだにあって、われらは貪らないでいとも楽しく生きて行こう。貪っている人々のあいだにあって、われらは貪らないで暮そう。

44 われらは何物ももっていない。いとも楽しく生きて行こう。ミティラー市が焼けているときにも、(ここでは)何も焼けないのである。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

43 (少欲知足せずに愚かにも煩悩を抱えて)貪る人々のあいだにあって、われらは貪らないで(煩悩を無くして)いとも楽しく生きて行こう(苦・迷い無く生きていこう)。(煩悩を抱えて)貪っている人々のあいだにあって、われらは貪らないで(煩悩を無くして)暮そう。

44 われらは何物ももっていない(本来無一物、無執着・無所有・無束縛・無価値)。いとも楽しく生きて行こう(苦・迷いを超えて安楽に生きていこう)。ミティラー市(俗世が煩悩に蝕まれて)が焼けている(苦しんでいる)ときにも、(ここでは)(煩悩を滅して暮す私たちは)何も焼けない(迷い・苦しまない)のである。

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施本「仏教~一枚の紙から考える~」

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」


一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上

 さて、まず宜しければ、「一枚の紙」を読者の皆様方それぞれの手元にご用意下さい。それから本論は始まります。

 白紙の普通のコピー用紙でも構いませんし、大きさ、形状は特に問いません。

 ご用意できましたでしょうか。

 それではまず、私たちが「紙」と呼んでいるものにつきまして考えてみましょう。「紙」とは、字を書くために、筆記媒体として私たち人間が作り出して開発されたものであります。当然に自然界においては存在していません。

 紙の起源は、古代エジプトまでさかのぼり、「死者の書」が記されていることで有名であるカヤツリグサ科の植物の名である「パピルス」であります。英語で紙を意味する「paper」の語源は、この「papyrus」に由来しています。

 パピルスへの筆記は、主に葦《あし》のペンが用いられ、青銅製のペンも使われることもありました。

 パピルスは、手紙や簡単な文書の筆記には、大いに役立ちましたが、強度上の問題などがあり、多くの文章を記すには限界がありました。特に膨大な文章量を扱う仏典・聖書などを記す場合には、大変不向きであり、紀元前百五十年頃に中国で発明されたとされている今日私たちが普通に「紙」と呼んでいるものが、その後、世界中で利用されるに至ります。実質はこの中国での発明の「紙」が起源であるとも言えるでしょう。

 この「紙」の発明までは、古代エジプトの「パピルス」と同様に、古代メソポタミアの「粘土板」やインドの「椰子《やし》の葉」、中国・韓国・日本の「木簡《もっかん》」・「竹簡《ちくかん》」・「絹布《けんぷ》」などがありましたが、いずれも大量の筆記、長期保存、運輸には不向きでありました。

 中国での「紙」の誕生以降、色々と便利に使うために改良が繰り返される中、一四五○年頃、ヨーロッパにおいてグーテンベルグが活版印刷を発明したことで、印刷物が大量に造られるようになり、紙の需要は一気に増大、製紙技術も更に進歩し、現代私たちが使っている「紙」へと進化していったのであります。

 「紙」の原料は、植物繊維のセルロースが主成分で、セルロース間の水素結合によって構成されています。

 さて、「紙」について、主に筆記媒体として使われるものと述べて参りましたが、それを私たちは、段ボールなどのように箱として使ったり、ティッシュペーパー、トイレットペーパーとして使ったり、包装や折り紙として使われるなど、用途も多様になりました。現代社会においては、私たちの生活必需品として、「紙」は大いに役立っています。

 更には、私たちが普段「紙」と呼んでいるのは、もう少し詳しく述べると「セルロースの水素結合体」と先に述べましたように、セルロースは、元素記号、炭素(C)と水素(H)と酸素(O)の化学反応で構成されています。水素結合は水によってすぐに切れてしまう性質のため、紙は水に弱く、また燃やすとあっという間に燃えてしまうものでもあります。

 元が「紙」であったとしても、水に溶けてしまったものや、燃えてしまったものは、もう「紙」と私たちは呼びません。あくまでも「紙」とは、一時の化学反応体、先に挙げさせて頂きました用途で使う場合の時に「紙」と呼称しているだけのことであり、化学反応によって変化したり、また厳密に言うと分子・原子・中性子・素粒子の単位でもめまぐるしくダイナミズム(躍動)、生滅変化を繰り返しているものであります。

 私たちが普通に「紙」と呼称するものについて、「では、あと一万年後、百万年後にもそれは存在していると思いますか」と質問すると、ほとんどの人は、「もう無くなっている」とお答えになるでしょう。書いた内容も当然に残っていないと想像できることでしょう。もちろん特殊保存するなどすれば別ですが、普通の自然界の中において、そのままにしておけば、徐々に色は変わり、化学変化して腐食していき、また水に濡れたり、燃えたりすると、脆くも無くなってしまうものであります。

 しかし、それは何も百年後だから、一千年後だから急に起こる変化ではありません。実は瞬間、瞬間においてさえも、既に分子・原子・中性子・素粒子の単位でもめまぐるしくダイナミズム(躍動)、生滅変化を繰り返しているため、これが「紙」とピタッと止めて「紙」とすることは、実は瞬間でさえもできず、永遠にあるものでは無く、永久に変わらないものでもありません。

・・第二章、次に続く・・

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感興のことば・第30章・41・42

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第30章・41・42

第30章 楽しみ

41 何物ももっていない人々は楽しんでいる。何物ももっていない人々は智慧の徳をもっているからである。見よ! 人々は人々に対してかたちが縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。

42 他人に従属することはすべて苦しみである。自分が思うままになし得る主であることはすべて楽しみである。他人と共通のものがあれば、悩まされる。束縛は超え難いものだからである。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

41 何物ももっていない(本来無一物を知り、無執着・無所有の)人々は楽しんでいる。何物ももっていない(本来無一物を知り、無執着・無所有の)人々は智慧の徳をもっているからである。見よ! 人々は人々に対してかたちが縛られ(執着・妄執・愛執・我執に縛られ)、何物かをもっているため(執着・妄執・愛執・我執、束縛)に(かえって)悩んでいるのを。

42 他人に従属すること(執着・妄執・愛執・我執、束縛・所有)はすべて苦しみである。自分が思うままになし得る主であること(克己)はすべて楽しみである。他人と共通(執着・妄執・愛執・我執、束縛・所有)にのものがあれば、(苦しみ)悩まされる。束縛は(なかなかにも)超え難いものだからである。

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施本・「仏教~一枚の紙から考える~」

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

次回施本、概要・内容がほぼ固まりました。また随時全文公開して参ります。

題・施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」


一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

一、はじめに

 前回は、この浅学非才、未熟者の身ながらも、仏教の学びに関しまして私なりにまとめさせて頂きました施本「佛の道」を平成十九年十二月に刊行させて頂きました。

 この度は、仏教の更なる理解のために、前作「佛の道」から更に一歩進めて、この施本を執筆させて頂きました。

 たった一枚の紙から説く仏教、前作とは少し違った視点から仏法の真理へのアプローチができたのではないだろうかと考えております。

 ただし、できましたら本論を読み進めて頂く前に、施本「佛の道」をまずはお読み下さいますことをお願い申し上げます。往生院六萬寺のホームページの方でも全文公開させて頂いておりますので、まだの方はそちらでもご確認、お読み下さいませ。

 この施本が、これから読者の皆様方が仏教の学びを進められる上において、少しなりともご参考になるところがございましたら、誠に幸いでございます。

 また、仏教の真理につきまして、ここにおいて私が述べさせて頂きましたことが、絶対的に正しいとは私自身も当然に思ってはおりません。

 なぜならば、人間の認識・判断・理解におきましては、その人の経験・学習・知識からの考え方・思想・主義・主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意《しい》的要素が相当に入ってしまうことが多々あるため、当然に、まだまだ私自身においてもしかりであります。内容に関しまして、必ずご批判、ご反論もあることと存じます。ご批判、ご反論もしっかりと受けとめて、確かなる仏教の理解へ向けて、今後更に歩みを進めていければと考えております。

 また、私自身、本論における解釈・解説につきまして、ここに書かせて頂きました内容に執着するつもりも毛頭ございません。間違いは間違い、誤りは誤りとして認めるべきところが出てくれば、それはしっかりと受け入れて認めて、修正・変更して参りたいと考えています。

 そのため、本論を読み進めて頂きます上におきましては、あくまでも内容は、まだまだ一僧侶の未熟なる理解にしか過ぎず、仏教の真理につきましては、読者の皆様方の精進努力による真理探究、見極めも当然に大切であると考えております。

 このことをまずはご理解賜りまして、これからも共に仏教の学びを進めさせて頂ければ幸いでございます。

 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。三界における全てのものたちが、苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

川口 英俊 合掌

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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感興のことば・第30章・39・40

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第30章・39・40

第30章 楽しみ

39 この世で教えをよく説き、多く学んで、何物ももたない人は、楽しい。見よ!人々は人々に対してかたちが縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。

40 何物ももっていない人々は楽しんでいる。何物ももっていない人々は智慧の徳をもっているからである。見よ! 人々は人々に対して心が縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

39 この世で教え(四法印・四聖諦)をよく説き、多く学んで、何物ももたない人(本来無一物を知り、無執着・無所有の人)は、楽しい。見よ!人々は人々に対してかたち(執着・妄執・愛執・我執に縛られ)が縛られ、何物かをもっているため(執着・妄執・愛執・我執、束縛)に(かえって)悩んでいるのを。

40 何物ももっていない(本来無一物を知り、無執着・無所有の)人々は楽しんでいる。何物ももっていない(本来無一物を知り、無執着・無所有の)人々は智慧の徳をもっているからである。見よ! 人々は人々に対して心が縛られ(執着・妄執・愛執・我執に縛られ)、何物かをもっているため(執着・妄執・愛執・我執、束縛)に(かえって)悩んでいるのを。

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感興のことば・第30章・37・38

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第30章・37・38

第30章 楽しみ

37 心のうちには怒りが無く、変転する迷いの生存をとどめ、つねに憂いを離れて、すっかり楽しんでいる人を、神々も見ることができない。

38 この世で教えをよく説き、多く学んで、何物ももたない人は、楽しい。見よ!人々は人々に対して心が縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

37 心のうちには怒り(煩悩・悪感情による怒り)が無く、変転する迷い(諸行無常・諸法無我の真理が分からずに迷い)の(苦のうちに)生存をとどめ(止めて)、つねに憂いを離れて、すっかり楽しんでいる人(安楽なる涅槃に至った人)を、神々も見ることができない。

38 この世で教え(四法印・四聖諦)をよく説き、多く学んで、何物ももたない人(本来無一物を知り、無執着・無所有の人)は、楽しい。見よ!人々は人々に対して心が縛られ(執着・妄執・愛執・我執に縛られ)、何物かをもっている(執着・妄執・愛執・我執、束縛の)ために(かえって)悩んでいるのを。

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一円相

「一円相」

次回施本の内容にも非常に関係している「一円相」の境地・・誠に難しいですね。

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

次回の施本を執筆しておりますが、改めて「仏教の基本法理の理解」、「唯識論について」の紹介、更には「而二不二について」の考察、そして「悩み・苦しみを超えて」としてまとめております。前作とは少し違った視点から仏法について、この未熟・浅学非才の身ながらアプローチしてみたいと考えております。とにかく焦らずに一つ一つであります。。

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