川口英俊の晴耕雨読ブログ

施本「佛の道」・第十二章 無価値

施本「佛の道」・第十二章 無価値

 次も、無執着、無所有の続きとなるのですが、無価値についてであります。

 この場合の価値は、絶対的価値=真理というものではなくて、中道の見方からは離れてしまった人間の主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素が色々と入って妄想されて創られた世俗における価値のことで、当然に目に見えない概念的なものであり、あやふやで入れ替わり立ち替わりも激しい優劣・正誤・善悪などの判断基準になるものでもあります。

 この場合における価値も無常の例外ではなく、変化する不安定な中にあります。私たちはそういうものにでさえも、無常・無我・苦の真理を理解しないままであれば、永遠性・不変性を探し出そうと妄想を繰り返して、しかも執着してしまうのであります。

 また、この場合の「価値」は、「特別」とも言い換えることもできるでしょう。

 私の特別の人・家族・生命・モノ・財産・地位・名誉・権力、地球・太陽・宇宙、さらには思想・主義・主張・思考、過去・現在・未来においてまでも「特別」としてしまおうとします。

 「特別」というのも、ここにおいては、やはり永遠性・不変性を求めようとしたり、こうあってほしい、こうなってほしいという渇愛になるもので、さらにほしいと執着しようとしているものに過ぎないのであります。

 無常・無我なる中では、この場合の価値など何も成り立たないもので、おそらく、私たち人類が現在有り難がっている様々な価値は、人類が存在していればこそ自分たちの自己都合・自己満足で成り立っているものがほとんどで、人類が絶滅してしまえば、どうでもいいようなもの、意味も無くなって霧散するようなものであります。というよりも「価値」、「特別」などというものは、始めから何も無いのに、無いものをあるのだと妄想して幻想を追いかけて悩むことでの苦しみも生じてしまうわけでもあります。

 全てが因縁の中で生滅変化を繰り返してゆくこの無常なる世界では、ほしいと渇愛し、もっとほしいと執着するに値するもの、意味あるもの、価値あるもの、特別なものは実は何も無く、愚かにもそれらを妄想することで、また苦しみが生じてしまうため、その妄想を止めなければならないのであります。

 無常において生滅変化していくに何ら差別はなく、中道の見方から外れた人間の恣意的要素による優劣・正誤・善悪の価値判断も何ら頼りなく変わってしまうもので、そこに束縛される意味もないのであります。

 私たちが有り難がらなければならないものは、普遍的な真理だけであって、それ以外に人間の生み出していく価値・概念などは、どうでもよい捨て去るべき妄想でしかないのであります。また、現象・存在の何かに価値を入れてしまうと、とたんに渇愛・執着が生まれて、そのままそれが苦しみに変わってしまいます。無常においては、価値は成り立たず、無価値であることを自覚して、苦しみを無くしていかなければならないのであります。

施本「佛の道」・各章
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施本「佛の道」・第十一章 無所有

施本「佛の道」・第十一章 無所有

 次に、無執着とほとんど内容は一緒となりますが、無所有についてであります。

 「本来無一物」と言われますように、はじめから所有できるものは何も無いということでありますが、なかなかこれも無明の闇の中では理解されないことであります。「私のもの」、「あなたのもの」、「私の所有」、「あなたの所有」と日常においても頻繁に使う言葉であり、法律の条文の中にも所有権という言葉が平然とありますので、当然に仕方ありません。

 しかし、仏教の無常・無我・苦を学んだ者は、所有という概念は成り立たない、苦しみの元となることに気がつかなければならないのであります。

 所有という概念は、そのものが変わらずにある、変わらない自分がいる、自分の支配下にある、自分の思い通りに、意のままにある、期待通り、希望通りにあるということで成り立っています。

 では、本当にそうであると言えるでしょうか。たとえ何かを得れたしても、無常なる中で、そのものも自分も、刻々と変化してゆきます。もしも得れたということが仮にあったとしてもほんの一瞬のことで、物質であれば、その変化が目に見えようが、目に見えまいが、色が変わろうが、変わるまいが、因縁においてもう次の瞬間には原子・分子・中性子・素粒子の単位でめまぐるしくどんどん変化していっています。のみならず得たと思った自分の心も身体も、次の瞬間にはどんどん因縁によって変化しています。

 ですから、得たものも、得たと思った自分も次の瞬間にはもう既になく、得る、所有するということは始めから全く成り立たないことであり、変わらない自分というものがあって、変わらない対象があってこそ、所有というものは成り立ちますが、無常の中、変わらない現象・存在は実は何もないのであります。

 それでも得たのだ、所有しているのだとするためには、もはや無理矢理に妄想して得れる、所有できる対象が「ある」、得れる、所有できる自分が「ある」というように幻想を生み出し続けるしかありません。「思い通りにある、期待通りにある、希望通りにある」と、しかし、結局、それは無常という現実の前では全くそうではないのであります。

 そして、得た、所有したと錯覚すると、なぜ思い通りに、期待・希望通りにならないのだと悩み煩い、不満を抱えることとなり、それがそのまま苦しみになるのであります。

 また、「得た」、「所有できた」と錯覚した己自身の身体自体も、思い通り、期待・希望通りにならず、刻々と死へ向かっているのに、何をこの世において得れるもの、所有できるものがあろうかということであります。死んでしまえば、もはや「得た」、「所有できた」という妄想・幻想のものですらも、捨て去っていかなければならないのであります。

 このように執着と合わせて、得た・有したという妄執、永遠・永久不滅なのだという幻想への妄執、ものがある、自分があるという妄執は無くしていかなければなりません。

 世間においては、これらの妄執のために、貪り、怒り、嫉妬、高慢、傲慢、エゴなどの悪感情を抱えてしまって、争い事、犯罪、奪い合い、殺し合いの戦争までも起こってしまい、一向にそれらがなくならないのも、それらの妄執・悪感情のせいなのであります。

 しっかりと「無所有」を自覚して、己を滅ぼさぬように、他を傷つけないように、他に迷惑を掛けないように気をつけなければならないのであります。

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施本「佛の道」・第十章 無執着

施本「佛の道」・第十章 無執着

 仏教の実践の上で、何度も何度も出てくる言葉の一つが、まずこの「無執着」であります。 執着は一般には「しゅうちゃく」と言いますが、仏教用語としては「しゅうじゃく」と呼ぶ場合がより正確で、「執著」とも表されることもあります。

 諸行無常において、あらゆるものが移ろい変わりゆく中では、何もしがみつけるものはないにも拘わらず、いつまでも何かにしがみつこうと必至になる、諸法無我において、固定した実体としての「我」はどこにも見当たらないのに、いつまでも「我」を探し求め、しがみつこうと必至になる、そのしがみつこうとすることを止めなさいという意味であります。

 十二縁起においては、「愛(渇愛)によって取(執着)が生じる。取(執着)によって有(苦しみの生存・所有という妄執)が生じる」とあるように、執着は苦しみをもたらす大きな原因であり、苦しみを抱えないためにも、無くさなければならないものとしての実践が、この無執着であります。

 ここでよく挙げる例として、「シャボン玉」があります。シャボン玉は誠に綺麗ですが、できたとしても何秒ももたずに、淡く脆くもすぐに壊れてしまう泡沫です。皆さんはこのことをよく知っているため、シャボン玉に対して、ほしいという渇愛、もっとほしいという執着もあまり生じないことでしょう。ですから、壊れて消えてなくなっても、嘆き、悲しみ、後悔などの苦しみは非常に少なく、皆無に近いのであります。

 このように誰もが、あっと言う間に変化し壊れゆくと知っているものには、それほど執着も生じないのであります。

 では、一方で、己の身体はどうでしょうか、己の子供、孫はどうでしょうか、己の財産はどうでしょうか、皆さんいつまでもほしい、いつまでも存在してほしいと渇愛し、もっとほしい、しがみつこうと執着が生じてしまいます。

 でも、無常なる中、シャボン玉と己の身体・子供・財産に何の違いがあるのでしょうか。別に生滅変化の中にあることに違いはなく、ただ因縁に従って、その現象も瞬間瞬間、刻々と変化していることに全く変わりはなく、止まるものは何一つもないのであります。それが渇愛・執着が生じることで、とたんに「止まってくれ」、「去らないでくれ」、「壊れないでくれ」となってしまい、当然に何も止まるもの、去らないもの、壊れないものはないため、そのまま止まらないこと、去っていくこと、壊れることが苦しみになってしまうのであります。

 また、恋人・伴侶・子供・家族・親族・友人・会社・社会・国家・世界に対して、逆に自分の受け入れたくないこと、認めたくないことなどについては、嫌悪して、期待通り、希望通りにそれらが変わってほしいという渇愛、もっと早く変わってほしいと思う執着もあるでしょう。しかし、無常は因縁に従って変化していくため、因縁を超えて妄想した渇愛・執着を抱えてしまっては、なかなか思うようにはならない、期待通り、理想通りにはならないので、そのことで苦しむこともあるわけであります。

 もちろん、これは中道としての無常の見方を行っていないために起こることでもあります。自身の主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素によっても、渇愛・執着の度合い、苦しみの度合いが大きく変わっていくことになっていきます。中道としての無常の見方を調えて、何ら偏りの無い、何ら差別の無い、何ら囚われの無い立場から全ての現象と存在を理解していけば、自然に渇愛・執着は無くなり、苦しみも無くなるのであります。全ての存在と現象はシャボン玉と何ら変わらないのであり、何ら執着するに値しないのであります。

 しかし、なかなか「無常だ」、「無我だ」、「苦だ」と述べても容易には認めないほど堅固に「執着の砦」は守られているのが世間の現状であります。それがゆえに、いつまでも悪い感情に支配され、不満、貪り、怒り、高慢、怠惰、嫉妬、怨み、蔑《さげす》み、恐怖、不安、心配、憂い、後悔、昏沈、掉挙などを抱えて、絶えず苦しみの劫火の中で焼かれ続けて生きてしまっています。平穏が常に破られて、争い、犯罪、戦争が絶えないのもこのためなのであります。

 人間は、財産(お金・土地・モノ)、恋人、伴侶、家族、親族、仲間、見栄、名誉、地位、権力など様々なものに対して、あまりに渇愛・執着が生じてしまうと、次第にそれらに束縛されて、やがてはそれらがその人間を支配してしまうまでに蝕み続け、様々な苦しみが付き従って離れないようになってしまいます。そのようなまま、あまりに離れないようにまでがんじがらめにしてしまうと、やがて最後に不満・不安・心配・絶望・恐怖などの悪い感情を抱えて極限の苦しみの中で死を迎えることになるので注意が必要になります。

 無明の闇の中では、人間はこのようなことは全く考えようとはしませんし、考えさせないようにする思考が働いてしまっています。それほどに「執着の砦」は難攻不落なのであります。そのために、仏教では四法印・四聖諦の真理、八正道の実践によって、この「執着の砦」を徐々に攻め落としていき、無明の闇の中で抱えてしまっている煩悩・苦しみも、少しずつ無くしていかなければならないとしているのであります。

 無常も無我も苦も知らない間に、己を蝕んでしまっている様々なものに対しての渇愛・執着をできる限り無くしていくことが大切となります。

 妻がいても、何が妻なのか、夫がいても、何が夫なのか、子供がいても、何が子供なのか、自分が固執して離さなくしているものたちに固定した実体としての「我」はないのに、また、全ては移ろい変わりゆく中にあるのに、捉えようとしても何も捉えられないのに、まるで蜃気楼、幻想の影を追いかけているようなものであるにも拘わらず、私たちは、それらを「あるのだ」、「こうあるべきなのだ」、「変わるな」、「変われ」、「永遠に変わらないものだ」、「永久なのだ」と勝手に妄想でイメージしてしまい、必死になってそのイメージを追いかけ、追いかけ、追いかけ続けて、守ろうとし、やがては追いかけ続けること、守ろうとすることが生きる目的にまでなり、そのうちにくたびれ、老いゆき、死を迎えるまでもがき続けてしまうのであります。

 結果、妄想のイメージと現実の乖離《かいり》は著しく広がっているだけで、最後は己の身体でさえもしがみつけず、一生懸命に蜃気楼、幻想の影を追いかけ続けた行為・過程の全ては死という一瞬で無駄に脆くも崩れ去って終わるのであります。

 しがみつこうとすればするほどに、苦しみが増すだけなのに、更に必死になって身体も心も酷使を繰り返してゆく、あっと言う間に身体も心もボロボロになって病気になってしまって、自然な老病死に反して早死にしてしまう人も多くなっています。日本における自殺者の増加もその一つと言えるのではないでしょうか。無執着になれば、自殺するほどまでに心や身体が病に蝕まれることもないですのに・・

 とにかく、皮肉にも世間では喜んで手に入れようと必死になっている執着・束縛対象、無常・無我・苦を知らないうちに抱えてしまった苦しみの原因となる執着・束縛対象、財産(お金・土地・モノ)、恋人、伴侶、家族、親族、仲間、見栄、名誉、地位、権力などは、これからできる限りに無常・無我・苦をしっかりと念頭においた上で、その接し方、心構え、扱いについて気をつける、また、必要最低限以上におけるものは離していきながら、執着せずに苦しみを少しでも無くしていくことが望ましいのであります。いつまでも愚かに自ら好んで苦しみの原因を、何ももうこれ以上作る必要は全くありません。

 「執着の砦」を果敢に攻め滅ぼしていきましょう。百万の屈強な兵を繰り出すよりも己ただ一人、己の「執着の砦」の心に克つことで、苦しみを無くしていかなければならないのであります。

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施本「佛の道」・第九章 智慧

施本「佛の道」・第九章 智慧

 智慧《ちえ》とは、無明を打ち破り、真理を悟ったものにもたらされる心の働きのこと。真理の実相から全く揺らぐことがなくなった心の働きのこと。智慧は、般若《はんにゃ》とも表されます。

 智慧は、既にもはや己のいかなる内面におけることも、己の外面におけるいかなることも、真理の実相の理解によって、常に涅槃寂静へと導くことができるように全てが調った、静かで落ち着いた心の働きであると考えます。

 また、智慧については、特に三学である「戒・定《じょう》・慧《え》」の中で詳しく扱われて説明されます。

 戒・・定められた戒律を学び遵守すること。戒律の規範となったのは、身行清浄・語行清浄・生活清浄の三つの清浄で、それらに向けて、例えば不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒の五戒や出家者に対しての戒律、生活規律などが多く定められています。

 定・・坐禅や瞑想修行にて禅定(精神統一・精神安定)を行うこと。禅定には諸説ありますが、基本としては、止(心を統一して止めること・三昧《ざんまい》とも言う)と観(無常・無我をありのままに捉える)からなり、その境地の段階として、四禅八定(四禅四定)があります。四禅八定では欲界・色界・無色界についてそれぞれ禅定の段階が分かれています。

四禅八定

 まず、欲界の粗定・細定・欲界定・未到定の四つですが、これは禅定の前段階であり、次の色界の初禅・二禅・三禅・四禅の四つと、無色界の空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定《ひそうひひそうしょじょう》の四つで四禅八定となります。

 それぞれの説明は非常に難しく伝えにくいものですが、誤解を恐れずに簡単に述べさせて頂きますと、まず欲界のところについては、心の集中を養い、雑念を払い、感情・感覚が研ぎ澄まされていく、次に感情・感覚が薄まっていき心が軽くなる。ここから禅定に入って、色界の段階となり、精神が集中されていく中、欲界の煩わしさから完全に離れられた状態を楽しみ喜ぶ状態となり、更に心が統一され、大いなる幸福感、心の平安を得て、そして次には、欲界におけることの渇愛・執着が無くなって非苦非楽の心境を味わい、更にはその平安な心が清浄の心へとなります。

 次に無色界の禅定に入り、清浄の心も徐々に消えていき、虚空、無辺の境地を得て、心が外部に触れることが完全に無くなり、更には、心の内部にも何も触れることが無くなる、そして心もない、意識が全く無いという禅定状態に至る。ここまでが、四禅八定の簡単な説明ですが、ではそれで悟りに至ったのかというと、そうではなくて、最後に九番目として「想受滅」があるとされ、想(表象・概念)と受(感覚・感受、六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕)が滅せられた境地であり、これはもはや言葉では表現できない境地で、悟りを得た者でしか分かり得ません。

 以上があくまでも簡単に述べさせて頂きました四禅八定の説明でありますが、考察・実践はそれぞれがしっかりと行なわなければならないものであります。

 慧・・戒・定と平行して進めなければならないこととして、五蓋《ごがい》を捨棄し、四聖諦の真理の完全理解へと至って、宿住随念智《しゅくじゅうずいねんち》、死生智、漏尽智の三明を得ていくこと。五蓋とは五つの煩悩で、貪欲(むさぼり)・瞋恚(激しい怒り)・睡眠(昏沈《こんちん》・心が重く沈んでいる状態)・掉挙《じょうこ》(心が昂ぶり平静さを失っている状態)・疑(真理への疑い、真理の理解を躊躇《ちゅうちょ》している状態)で、これらを無くしていくことによって、四聖諦の理解を深めて智慧が現われていくようになります。そして、解脱へ至るための三つの智慧として、まず、宿住随念智とは、過去における煩悩・苦しみをもたらす所業の過程と原因を如実に知ること、死生智とは、他における煩悩・苦しみを如実に知ること、漏尽智とは、四聖諦の理解により、煩悩・苦しみが無くなったことを如実に知ることであります。
 
 定の「想受滅」、最後に解脱と解脱知見の智慧を得て悟りになるとされていますが、その境地はもはや言葉で表すことは実に難しくあります。

 また、いかなる現象・存在に対しても「無執着」の状態になり、既に悟り・智慧にさえも執着が無くなっていますので、当然に「我」もなく、「悟り」・「智慧」についても、「私は悟り・智慧を得たのだ」、「悟り・智慧は私のもの」というような妄執もないですので、ただ、最後には「涅槃」と述べるだけの方がより正確ですっきりすると言えるでしょう。

 そして、智慧は、生きとし生けるものたち、のみならず三界における全てのあまねくものたちにおける無明の闇を打ち破らせ、苦しみを取り除く慈悲の実践へと向かわせる働きでもあると解します。

 迷い・苦しみを抱える者が、智慧ある者に出会い、教えを請うたのであれば、即座にその迷い・苦しみは打ち破られることになるでしょう。その者こそ、正しく悟った者、正覚者・ブッダと言われる者であります。その第一がお釈迦様で、その教えが仏教なのであります。

 また、智慧を開発させる実践手段が八正道であります。仏法僧の三宝に帰依したる者は、しっかりと八正道を実践して智慧を開発していかなければならないのであります。

 もちろん、「悟りを得たい」、「智慧を得たい」というところに渇愛・執着してしまっては、到底、解脱・涅槃の境地に達することは、不可能になることも十分に注意しなければならないのであります。
 
 さて、ここまで少し難しい話が続いてきました。もしかすると既に途中でチンプンカンプンになられたかもしれません。または、それは間違っているのではないかと思われることもあったかもしれません。そうであれば、私の解説・解釈・内容に誤りがある、語彙・表現の仕方に問題がある、配慮が足りない、勉強が及んでいない、仏教の真なる教えが一部抜けているなどのことも考えられます。誠に未熟者がゆえに申し訳ないと存じます。 

 仏教の実践は、必ず迷い・苦しみが無くなり、涅槃寂静へと至るためのものであります。読者の皆様方の迷い・苦しみが少しも無くならないとなれば、それは単に私に責任があることであり、深く反省して真なる理解へ向けて一層精進努力していかなければならないと考えております。

 ここからは、章ごとにおいて理解を進めていくために、できる限り具体例を挙げて、これまでの内容を補完していきたいと考えています。どうかまだしばらくお付き合いくださいますれば幸いでございます

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施本「佛の道」・第八章 因縁生起

施本「佛の道」・第八章 因縁生起

 因縁生起《いんねんしょうき》は、主に省略して縁起《えんぎ》と言われることが多いですが、この世における一切の現象・存在は、全て因(直接原因)と縁(間接原因・条件)の二つの原因が、それぞれ関わり合って構成されているということで、もちろん生滅変化を繰り返す無常の中にあります。

 私たちの存在も五蘊(色・受・想・行・識)の因縁生起で仮に成り立っていると先に述べてありますように、無常なる中においては、絶えず変化していく五蘊のいずれも「これが自分だ」とすることは不可能であり、固定した実体としての「我」は成り立たず、「無我」となるのであります。もちろん、全ての現象・存在も無常なる因縁生起のものであり、固定した実体としての「我」はどこにも何もありません。

 そして、お釈迦様は、苦しみを無くすために、因縁生起によってその苦しみの原因を明らかにされました。

 「これがあれば、かれがある。これが生ずれば、かれが生ずる。これがなければ、かれがない。これが滅すれば、かれが滅する。」という手法においてであります。

 苦しみの生じる原因をまとめたものに十二縁起があります。十二縁起には諸説あるため、解釈には非常に注意が必要となります。また古来より理解は難解とされているため、八正道の確かな実践によってこそ明らかにされるものであります。浅学非才、修行未熟なる私なりで頑張っての解釈は一応書き記しますが、読者の皆様方におかれましては、八正道の実践によって真なる理解を明らかにされることを切に願う次第でございます。

 十二縁起、「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」。

・無明 
 煩悩の根元のこと。特に全ての煩悩を代表し、この「無明」として挙げられる。真理という明るさ、智慧という明るさから遠ざかってしまっていて、暗い闇の中をさ迷い続けているということ。無知とも言われる。煩悩の三毒としてよく挙げられる貪瞋痴《とんじんち》の痴、つまり愚かさを言う場合もあります。

・行
 五蘊の説明で先に述べてあります行と同意で、意志・行為のこと。行は業とも言われることがあり、その場合は、無明・煩悩で 真理を知らないことによって積み上げてしまう行為、特に悪業のことを示します。無明によって行が起こる。

・識
 五蘊の説明で先に述べてあります識(意識・認識)のこと。行によって識が起こる。

・名色
 色は五蘊の説明で先に述べてあります物質のことで、人間における場合は肉体のこと。名は、心のこと。心と身体が結合すること。識によって名色が起こる。

・六処
 心と身体の一致によって眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官、六処が起こること。名色によって六処が起こる。

・触 
 触は、接触のこと。六処によって、この世における様々な対象と接触していくこと。接触によって主体と客体、主観と客観も生じます。六処によって、触が起こる。

・受
 五蘊の説明で先に述べてあります受(感覚・感受)のこと。受け入れるもの(快楽)、受け入れないもの(不快・苦)、どちらでもないもの(非苦非楽)が生じる。触によって受が起こる。

・愛
 渇愛のこと。受によって、受け入れたくないもの・認めたくないもの(不快・苦)は疎い嫌い、ほしくない、受け入れるもの(特に快楽)には好き、ほしいという渇愛が生じる。受によって愛が起こる。
 
・取
 執着のこと。愛によって、受け入れたくないもの・認めたくないもの(不快・苦)には疎い嫌い、ほしくないという執着、受け入れるもの(快楽)には、ほしいという渇愛から更にもっとほしいという執着が生じる。愛によって取が起こる。

・有
 苦しみの生存のこと。様々なことに執着することによって、苦しみの生存がある。または所有という妄執を抱えた苦しみとも考えられます。取によって有が起こる。

・生
 生きること。苦しみの生存の中を生きること。有によって生が起こる。

・老死
 生きることは、老いて死ぬこと。様々な苦しみを代表して、特に老死がここでは挙げられています。生によって老死が起こる。

 お釈迦様は、悟りを開かれた時、この十二縁起を順観と逆観によって理解されたと言われています。

無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死 A→B

順観  
 Aがあれば、Bがある。Aが生ずれば、Bが生ずる。

逆観 
 Aがなければ、Bがない。Aが滅すれば、Bが滅する。

 十二縁起は、なぜ苦しみが生じるのかということについて徹底して知見していくために順を追って、その因縁を記したもので、目指すところは、苦しみの原因は無明にあることを明らかにし、無明を打ち破って、智慧を開発して、苦しみから解脱することにあります。

 しかし、十二縁起は、あくまでも八正道の実践を補完するためのもので、真なる悟りを得るためには、やはり八正道の実践は欠かすことはできないものと解しております。

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施本「佛の道」・第七章 八正道・中道

施本「佛の道」・第七章 八正道・中道

 八正道《はっしょうどう》(八聖道と言う場合もある)とは、文字通り正しい八つの道、実践指針のことです。

 その内容に入る前に、まずは「正しい」ということについてしっかりと考えておかなければなりません。私たちは普通に生活する中で、「あれは正しい」、「あれは間違っているということが正しい」と判断することが多いですが、それらの判断においては、大抵の場合、それぞれ自身の主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素が入り交じって、あやふやで、ほとんどの場合、絶対的に正しいとは、なかなか言えないものばかりであります。

 または、正しいということも、多くの人間が賛同しているから、多数決で決まったものだからという理由であったり、時代の変化、人間の価値観の変化、新たな発見によっても変わることも頻繁にあります。

 絶対的に正しい真理というものであれば、いつどんな時代においても、草木や虫たちにとっても、人間が絶滅した後の地球であっても、または宇宙の全ての現象・存在にとっても、のみならず欲界(六道《りくどう》、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)・色界(物質的世界)・無色界(欲界・色界でもない精神的世界)の三界においても当然に正しくなければならないのであります。

 また、やっかいであるのは、人間は自分の認識・判断がいつも必ず正しいと思って行動していることです。よもや誰も自分の認識・判断が間違っているとは思ってはいません。みんながみんな自分は正しいと思って行動しているがゆえに、自分の認識・判断と違うことを言われ批判されたり、違う行動をされたりすると、それを認めず、受け入れずに腹が立って怒りを出し、衝突してしまうのであります。私たちの世界で争いが絶えないのも、この誰もが自分は正しいと認識・判断しているためなのであります。

 人間の認識・判断には、このように主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足など恣意的要素が強く入ってしまうことが多いので、本当に正しい真理を認識・判断するためには、それらの恣意的要素を全てしっかりと排除していかなければなりません。

 そのために、上から見ても下から見ても、右から見ても左から見ても、中間から見ても、過去から見ても現在から見ても未来から見ても、どのようないかなる現象・存在から見ても、三界における全てから見ても、何ら偏りの無い、何ら差別《しゃべつ》の無い、何ら囚《とら》われの無い立場から認識・判断したものを、ようやくに「正しい」としなければならないのであります。このような立場のことを「中道《ちゅうどう》」と言います。

 この中道の立場によって、八正道が成り立つのであります。では、その内容に入ります。

・正見 「四聖諦の智」と言われています。
 正しく真理、四法印・四聖諦を見極めることですが、諸行無常・諸法無我の真理をあるがままに中道の立場で完全に知見することで、あとの七つの正道の実践によって智慧を開発して、苦からの解脱を目指し、涅槃へと向かうように調えていくための第一歩となります。

・正思惟《しい》
 欲(主に五欲である財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲など)によってもたらされる悪い行いについて否定していく考えのこと。特に、無害心・無瞋恚・無貪欲の三つについて思惟すること。無害心とは、生きとし生けるものたちを慈しみ、害を与えないようにすること。無瞋恚とは、激しい怒りをもって行動しないこと。無貪欲とは、足るべきをわきまえずに、必要以上にまで貪ることをしないことであります。

・正語
 正しい言葉遣いのこと。正見・正思惟を受けての言動を調える上で、特に次の四つのことに気をつけて慎むこと。妄語(虚偽を語ること)・両舌(言葉を都合において使い分ける、二枚舌のこと)・悪口(相手を傷つける・不幸に陥れる言葉)・綺語(必要の無い美辞麗句、いい加減な言葉)を慎むこと。

・正業
 正しい行いのことですが、他に迷惑をかけない、他を不幸にしないことで、特に次の三つのことに気をつけて慎むこと。殺生(自己満足・自己都合・独善的に生き物の生命を絶つこと)・偸盗《ちゅうとう》(盗むこと)・邪婬《じゃいん》(よこしまな男女関係・不倫のこと)を慎むこと。

・正命
 命をつなぐ上において、大切で必要になる衣・食・住・薬をまかなうために正しい生活・生業《なりわい》をすること。他に迷惑や危害が及ぶような生業・職業に就くことは気をつけて慎むこと。

・正精進
 正命のために、正しく勤め励み努力をすること。特に次の四つについて精進すること(四正勤《ししょうごん》)。すでにやってしまった悪を消すための努力、いまだしていない悪について、これからも絶対にしないための努力、いまだしていない善をこれからしていくための努力、すでにしている善を更に進めていくための努力。
 
・正念
 無常・無我なる中における瞬間瞬間の心の変化、身体の変化についての真実に正しく気づいていくこと。心を常に真実に気づかせていくこと。

・正定
 正念の実践のために精神を統一して心を定めること。禅定とも言う。坐禅や瞑想の実践。この正定によって、正見も完成し、智慧を得ていくことができるようになります。

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施本「佛の道」・第六章 四聖諦

施本「佛の道」・第六章 四聖諦

 「四聖諦《しせいたい》」は、苦諦・集《じっ》諦・滅諦・道諦の四つであります。

 諦とは真理という意味で、もちろん諦《あきら》めるという語意ですが、つまり、どんなに考察思慮し、どんなに検証を繰り返しても変わらない答えであったために、抵抗を止めて、諦めたということでもあります。例えば、どんなにこの世の現象・存在で「無常」ではないものを探し求めても、「無常」でないものが全く見つからない、どんなにこれが「我」として探し求めても、その「我」が全く見つからないということでの諦めた境地のことであります。

 四聖諦は、仏教の大切な教説で、苦しみから解脱し、涅槃へと至るための実践方法論であります。

 まず、苦諦でありますが、一切皆苦でも述べさせて頂きましたように、この世のあらゆる一切の全ては苦しみであるということですが、その苦しむ原因は何であるのかという集諦も含めてまずは考えていきます。

 一切皆苦においては、苦しみの原因は、妄想の集まりである煩悩にあり、その妄想の代表格として、ほしいという「渇愛」、しがみつこうとする「執着」があると述べさせて頂きました。ここでは、さらに煩悩・苦しみの原因の根本である「無明《むみょう》」について扱いたいと思います。

 無明とは、字の通り、明るさが無いということですが、つまりは、真理という明るさ、智慧という明るさから遠ざかってしまっていて、暗い闇の中をさ迷い続けている、真理について盲目的になっているということであります。この場合の真理とは、四法印・四聖諦のことであり、智慧についてはまた後の章で詳しく述べることにします。

 無明は、無知とも表されることがあり、煩悩の三毒としてよく挙げられる貪瞋痴《とんじんち》の痴、つまり愚かさのことを言う場合もあります。

 また、十二縁起(因縁)の第一番目に煩悩を総称する形で挙げられており、煩悩の一切のことを示す場合もあります。十二縁起につきましては、また後の章で扱います。

 一切皆苦の章の中にありました四苦八苦も、その根本の原因は無明にあり、その無明をいかに打ち破って克服するかは、四法印・四聖諦の理解の進み具合次第に係るわけであります。 

 もう少し簡単に述べてみますと、この世では何も満足できない、その不満が苦しみになるのですが、ではなぜ不満になるのかが分からない愚かなことを無明だと言うわけであります。例えば、変化していくものを変化しないものとして捉えようとしたり、固定した実体としての我はないのに、我があるのだとして捉えようとしたりすることに、満足できなくなる、不満の原因があることを諸行無常、諸法無我の真理を自覚することによって、愚かで無駄な思考・妄想・行動を止めることが大切になるというわけであります。仏教の真理を自覚して、無明の闇に打ち克っていかなければならないのであります。

 このように、集諦においては、苦しみの原因は、ただ煩悩と表す場合や、渇愛・執着と表す場合もありますし、煩悩を喚起させて、苦をもたらす根元として無明と言う場合もあります。または、同じく煩悩の根元として、貪欲《とんよく》(むさぼり)・瞋恚《しんい》(激しい怒り)・愚痴《ぐち》(おろかさ)の三毒を言う場合もありますし、十二縁起では、無明を苦しみの根元として、次に渇愛によって苦しみがどんどん広がって、執着によって更に苦しみが大きくなっていくとしている場合もあります。

 次に、滅諦・道諦でありますが、滅諦は、涅槃寂静と内容はほぼ同じで、苦しみの原因である煩悩(ここではただ煩悩としておきます)を完全に滅すれば、苦しみも生じることなく当然に滅することができて、涅槃へと至るという真理のことであります。 

 そして、道諦において、苦しみを無くすために、涅槃に至るために、ではどのようにして煩悩を滅していけばよいのかという実践行動について、お釈迦様は八正道を説かれたのであります。

第一章 はじめに
http://www.hide.vc/hotokenomichi1.html

第二章 諸行無常
http://www.hide.vc/hotokenomichi2.html

第三章 諸法無我
http://www.hide.vc/hotokenomichi3.html

第四章 一切皆苦
http://www.hide.vc/hotokenomichi4.html

第五章 涅槃寂静
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〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
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施本「佛の道」・第五章 涅槃寂静

施本「佛の道」・第五章 涅槃寂静

 諸行無常、諸法無我、一切皆苦と最後のこの「涅槃寂静《ねはんじゃくじょう》」を合わせたものを仏教の基本法理として「四法印《しほういん》」と呼称します。

 「涅槃」は、彼岸・悟りの世界、安楽なる境地のことであり、「寂静」は、寂滅とも表され、迷い苦しみの原因である煩悩が、完全に無くなったことを意味します。

 涅槃寂静は、仏教の目標、到達すべき境地であり、そのためには、先の三つの法印の真なる理解が必要となる次第でもあります。

 煩悩を完全に滅するということは、まずその原因となってしまっている様々な妄想を止めることでもあります。その一つが、諸行無常なる中では、何も永遠不変なもの、永遠不滅なものはないのに、それらを求めようとして妄想してしまうことであり、さらにもう一つが、諸法無我なる中で、何も固定した実体としての我はないのに、我があるとして、それらを求めようと妄想してしまうことであります。

 一つ一つの妄想をしっかりと潰して、真実なる真理に目覚めることで煩悩が尽滅され、涅槃へと至れることとなります。

 あるがままの真実をあるがままに自覚することで得られる境地になると解しますが、なかなか難しいのも現実であります。妄想が出てきてしまう要因としては、先にも述べていますように、主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素も複雑に絡み合っているため、それらの排除を丁寧に進めていかなければなりません。

 もちろん、お釈迦様は、どのように涅槃へと至れるようにするべきかにつきまして、「四聖諦《しせいたい》」をお説きになられました。四聖諦につきましては、次の章に扱うこととしまして、四法印・四聖諦を端的に表したと考えられる涅槃経における一つの偈をここにて紹介しておきます。 
 
 「諸行無常
  是生滅法
  生滅滅已
  寂滅為楽」

 私の解釈

 「諸行は無常であり、これは生じては滅するという理《ことわり》である。この生滅の理の真実が正しくそのままを理解できずに悩み煩ってしまうことが、私たちの苦しみの原因であり、この苦しみの原因となってしまっている妄想の集まりである煩悩の生滅を滅しおわって、煩悩を完全に寂滅して、ようやくに苦しみから解脱した安楽なる涅槃・悟りの境地へと至ることができるのであります。」

第一章 はじめに
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第二章 諸行無常
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第三章 諸法無我
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第四章 一切皆苦
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施本「佛の道」・第四章 一切皆苦

施本「佛の道」・第四章 一切皆苦

 「この世のあらゆる一切の全ては苦しみである」といきなり言われると、誰もが悲観的になり嫌悪することでありましょう。

 でも、「あなたにとって生きるということで苦しみはないのですか?」と聞くと、真剣に考えてみれば「やはり色々な苦しみがある」と答えることになるでしょう。

 もちろん、仏教はその苦しみを無くしていくための教え、方法論を説いているものであります。共にしっかりと学び実践することによって、苦しみを無くしていきましょう。

 では、まず何が苦しみかということについて、ここでは考えていくことにします。

 理由は簡単なのであります。それは諸行無常なる中に永遠不変・常住なるものを求めようとして妄想してしまうこと、諸法無我なる中に、固定した実体としての我を求めてしまうことにあります。このようにほしいと求めてしまうことを「渇愛《かつあい》」と言いますが、この「渇愛」が満たされないことで、苦しみが生じてしまうわけであります。また、諸行無常・諸法無我の中で、何も執着できるものがないのに拘わらず、しがみつこうとしても、しがみつけないことで苦しみが生じてしまうと言うことでもあります。

 この「渇愛」・「執着」を産み出してしまう「妄想」の集まりが「煩悩」であり、その「妄想」を一つ一つ無くしていくことで、苦しみも一つ一つ無くなっていくのであります。そして、全ての「妄想」が無くなれば、当然に「煩悩」も無くなり、苦しみも完全に無くなりますので、仏教はその境地を目指すための教えでありますから、一切皆苦と言われても悲観することなく学びについて精進しましょう。

 次に、人間が味わう具体的な苦しみについて、仏教では簡潔に「四苦八苦」にまとめています。

 それは、「生・老・病・死」の四苦、そして、「愛別離苦《あいべつりく》」・「怨憎会苦《おんぞうえく》」・「求不得苦《ぐふとっく》」・「五陰盛苦《ごおんじょうく》」の四苦で八苦になるわけであります。

 まず、生きる苦しみについてでありますが、やがて死ぬことは絶対に避けられないのに生きていかなければならないという苦しみ、身体も心も生きることを維持・継続させていくためには、食べること、体裁を調えること、住処を得ること、学んで知識を得ること、資格を得ること、働くこと、仲間を得ること、配偶者を得ること、子供をもうけること、友人を得ること、家族を養っていくこと、お金を貯めること、遊ぶこと、休むこと、病気になったら治療することなどに一生懸命に頑張って取り組まなければならないという苦しみ、しかもなかなか自分・人・家族・会社・社会・国家・世界が自分の思い通りにはならない、期待・理想通りにはならないという苦しみ、激しい生存競争・淘汰社会の浮き沈みの中で、いつ壊れてもおかしくない家族・友人・職場・社会など他との関係を何とかしてでも維持・継続して過ごしていかなければならないという苦しみ、いつ起こるか分からない天変地異や事故・犯罪にいつも脅《おびや》かされて不安・恐怖を抱えて過ごさなければならないという苦しみなど色々とあります。

 無常なる中で、やがて死を迎えれば、最後には全て捨て去っていかなければならない身体や金やモノや見栄や権力やらというものへの渇愛が止まずに、生というそのものに最後まで執着してしまうことによって、苦しみが生じてしまうことになります。

 老・病・死についての苦しみはここではあまり述べるまでもないと思いますが、それぞれ、若さ、健康、生という執着から生じる苦しみであります。

 また、無常なる中、変わってほしくないという渇愛・執着だけでなく、変わってほしいという渇愛・執着からも、なかなか思い通りに変わらない、期待通りに変わらないという苦しみも生じます。

 「愛別離苦」は、愛する者・モノ・ことともやがては別れ、離れなければならないという苦しみ、「怨憎会苦」は、激しく憎しむ者・モノ・ことでも出会って過ごしていかなければならないという苦しみ、「求不得苦」は、求めても求めても得ることができないという苦しみ、「五陰盛苦」は、「五取薀苦《ごしゅうんく》」とも言いますが、先に述べております色・受・想・行・識が盛んに働いて、その五薀に囚《とら》われて「我」に執着してしまうために生じる苦しみであります。

 また、人間にとっては、内面的なもの、外面的なものに拘わらず、あらゆる感受されるものは楽(快楽・享楽)・苦・非苦非楽の三つに分けることができますが、楽は壊れるときに苦となり、非苦非楽のものでさえも無常の中にあっては、生滅変化を免れないのでいずれ壊れゆくときに苦となってしまう、ゆえに苦でないものはこの世においては何もないとして、あらゆる一切の全ては苦しみであるとお釈迦様は説かれたのであります。

第一章 はじめに
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第二章 諸行無常
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第三章 諸法無我
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施本「佛の道」・第三章 諸法無我

施本「佛の道」・第三章 諸法無我

 次に「諸法無我《しょほうむが》」についてであります。これは諸行無常からの派生的な真理として理解していますが、この世の存在において、一切のものが変化していく中では、固定した実体としての「我」というものはない、変化するものには、主体たる「我」は成り立たないということであります。

 普通、私たちは、存在について、自分がある、相手がある、生き物がある、モノがあると、その存在が常にあるものとして捉えてしまいがちです。

 しかし、それはそのものが常に変わるものではない、永遠に不変なる常住なるものとしての前提においてこそ成り立つことであり、諸行無常なることを無視してしまって、「我」というものを認めてしまおうとすればするほどに、そうではないことが、悩み煩いとなって、それが苦しみになるのであります。

 それでも私たちは無理矢理に「我」を認めようと、何らかの理由付けを探すために想像をめぐらせて頑張りますが、結局は妄想に終始してしまい、幻想・蜃気楼を見て、それを「我」だとしてつかもうとするものの、決してつかめることはないのであります。

 諸法無我の教えの本質は、この世における存在には、始めから何もしがみつけるもの、執着できるものはないとして、私たちが勘違いして「ある」としてしまっている「我」についての妄想を止めなさい、「我」があるとして見ているのは、幻想・蜃気楼みたいなものですよ、実体はないですよ、つかめないですよと気付かせるためであります。

 諸行無常なる変化をそのままの変化として、変化するものが全ての存在の現象であると受け入れて認めることで、「我」があるのだと錯覚して悩み煩う妄想を止めることが大切になるわけであります。

 では、無常なる中における私たち人間存在とは一体何であるのか、それを仏教では、五蘊仮和合《ごうんけわごう》のものであるとしています。

 五蘊とは、色《しき》・受・想・行・識で、それぞれ、色(物質・肉体)、受(感覚・感受、六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕、五蘊の場合における六感では「意」は含まない場合もある)、想(表象・概念)、行(意志)、識(意識・認識)で、その五蘊が無常なる中、因縁によって仮に集合しているものが、私たち人間の存在であり、その五蘊も当然に移ろい変化する中にあって、決して永遠不変・常住なるものではなく、五蘊にも固定した実体たる「我」はないため、五蘊それぞれも「自分のもの」ではなく、もちろん何もつかめないし、執着できるものではありません。

 私たちの苦しみは、五蘊にしがみついて「これが自分だ、これが自分のものだ」と妄想してしまうことから生じてしまうわけであります。その妄想を打ち破ることが、諸法無我の理解においては大切となります。

 五蘊を私なりに少し順番に例えで挙げてみますと、色・自分の肉体(新陳代謝を繰り返しながら変化して衰えゆくもの)がある、色・太陽(水素とヘリウムの熱核融合反応の塊)がある、受・人間は、肉体の感覚器官、この場合は眼・身で太陽の光と熱を感じる、想・太陽についてのイメージ・概念を作る(丸いものだ、明るいものだ、暖かいものだなど)、行・行動意志が起こる(太陽が出たから動こう、太陽の明るさ、暖かさを利用してあれをしよう、これをしようという意志が起こる)、識・認識(私たちが動くことができるためのものだ、ありがたいものだ、恵みをもたらすものだなどとして認識する)としましょう、しかし、全ては刻々と移ろい変化していくものであるため、色・太陽も実際は熱核融合による水素とヘリウムを消費しながらの爆発の連続で、コロナ、黒点、太陽風、磁力線などの出現も目まぐるしく瞬間で生滅変化し続けていて、私たちの色・肉体である眼や身(便宜上、ここでは皮膚)も刻々と新陳代謝を繰り返しながら変化し衰え、老化してゆく中にあり、あるいは病気となり機能が低下する、見えなくなる、感じなくなるなど死へと向かう中で変わりゆき、受・感覚も、例えばまぶしすぎて見難くなったり、また弱くなった眼や皮膚が紫外線を受けると痛くなったりと、感じ方も時間や場所、年齢・状況・状態など時々によっても刻々と当然に変わっていけば、想・太陽についてのイメージ・概念も、色・受が変われば、例えば、私たちを痛くして害するものだ、つらさをもたらすものだ、日照りが続けば、過酷なものだと変わっていくこともあり、そして、これに従って行・行動意志も、太陽を避けなければならない、対策をしなければならないと変わることもあります。これらの色・受・想・行によって、識・認識についても、気をつけなければならないものだ、嫌なものだ、つらいものだ、危ないものだなどに変わっていくことになるでしょう。

 このようにして、無常なる中においては、絶えず変化していく五蘊のいずれにおいても「これが自分だ」とすることは不可能であり、「我」はやはり成り立たないということであります。「自分がある」として妄想してしまって苦しむ「我」をなくし、五蘊のいずれにも執着しないように「我執」を無くしていかなければならないのであります。

 もちろん、あらゆる全ての存在においても固定した実体としての「我」というものはないというのが、この諸法無我の教えなのであります。

第一章 はじめに
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第二章 諸行無常
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