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川口英俊の晴耕雨読ブログ

施本 「佛の道」・第二章 諸行無常

施本 「佛の道」・第二章 諸行無常

 仏教を学ぶ者も、そうでない者も一度ならずこの「諸行無常《しょぎょうむじょう》」という言葉は聞かれたことがあるのではないかと思います。

 有名な中世日本の歴史物語・平家物語の冒頭にも、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす・・」とこの言葉が出てきます。

 また、一般的にも舞い散る桜の花びらや、紅葉した落ち葉を見ては、「無常だなー」と感傷的に使うこともしばしばあるのではないでしょうか。この感傷的な場合の無常は、仏教の無常観とは少し違うものでありますので、やや注意が必要となります。

 諸行無常とは、「この世のあらゆる全ての現象・存在は移ろい変わりゆくもので、生滅変化を繰り返す常ならずにある」ということであり、この世における現象・存在には、永遠不変なるもの、永遠不滅なるものは一切何もないということでもあります。

 仏教の教えの真髄はまさに「無常」の理解にあり、無常の理解を完全完璧に行うことができれば、それで悟りに至ることができると言っても全く過言ではないものであると考えます。

 もちろん、その真なる理解は、かなり険しく難しいため、私たちはなかなか悩み煩う苦しみから逃れることができないのであり、それは、無常という理解について、やはりそれぞれ自身における主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足など恣意的要素がどうしても入ってしまうためで、真なる理解を邪魔するそれらの要素を完全に排除していかなければならないのであります。

 例えば、自分にとって都合の良い、嬉しい、有難い「無常」は受け入れても、自分や自分の愛する人、親しい人の老・病・死や心変わり、自分の好きなもの、大切なもの、失いたくないものの「無常」の変化は受け入れたくない、認めたくないということはないでしょうか。 

 また、受け入れるもの、認めたものは永遠不変、永遠不滅なるものとして、何とかそう思いたい、そうあってほしいとして、様々な想像、妄想《もうぞう》を働かせて、無理矢理に色々とこじつけを行い、結局は、なお一層に「無常」の真理から遠ざかってしまうことによって、更に迷い苦しみの中に陥ってしまうことにもなってしまうのであります。

 もちろん、勝手に無常の理解を自分の都合で変えてしまっては、真に「無常」を理解したとは到底言えません。全ての無常なる変化のありのままを差別《しゃべつ》無く受け入れて、認めていくための心の修行が必要になってくるわけであり、仏教を学ぶ僧侶たちは、そのために瞑想や坐禅を通じて、その心境をしっかりと調えていくのであります。

 また、刻々と全てが移ろう中における無常のこの世においては、同じ瞬間というものはもはやありません。それがゆえに過ぎ去った瞬間を振り返る暇も当然になく、いかに今の瞬間瞬間のありのままを受け入れて、過ごしていけるのかどうかが大切となります。

 ですから、過去におけることで、今の瞬間に活かすための反省ということはあっても、後悔というものは成り立たないわけで、過去に束縛されて今の瞬間の心が暗く苦しい状態にあるのであれば、それは無常の変化に全く自分の心・身体が追いついていないということでもあります。

 更にもう少し本質的な話をするとすれば、この世は無常でなければ私たちは存在することは当然にできません。無常という中におけるあらゆるものの因縁正起《いんねんしょうき》(縁起)の営みがあってこそ、宇宙、銀河系、恒星、惑星なども存在し、この地球においても、生命が生存できるような稀有なる状況への変化の過程の中で、私たちの存在自体も奇跡的にあるわけであります。 

 ありえないことながら、何も変化しない宇宙があるとすれば、当然に何も変わっていかないため、銀河系も恒星も惑星もブラックホールも、地球における生命の営みも、何の生滅変化もないのであります。もちろん、美味しい果物も、可愛い虫や動物たちも、心地よい音楽も、楽しいお芝居も何も存在しないのであります。

 つまり、無常を否定することは、私たちの存在のみならず、この世の現象・存在そのものをも否定することになるのであります。ですから、因縁の中で今現在、存在している以上は、結局当然に無常をしっかりと受け入れて、認めていかなければどうにもならないわけであり、そうでなければ、あなたも、あなたがあまり変わってほしくないと願っているあなたの愛する人たち、親しい人たちも当然に始めからその存在を否定することになってしまうのであります。しかし、現に確実に存在している以上、それはもうできないことであります。ですから、現象・存在の無常を当たり前のように認めることが、まず仏教の教えにおいては大切となります。

 さて、諸行無常につきましては、これから本論を進めていく中で、随時、その理解について補完していくこととします。

第一章 はじめに
http://www.hide.vc/hotokenomichi1.html

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2007 Hidetoshi Kawaguchi, All Rights Reserved.

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施本 「佛の道」 ・ 第一章 はじめに

施本 「佛の道」・第一章 はじめに

 お釈迦様が悟りを開かれて、その教えをお説きになられましたのが、仏教であります。今からおよそ二千六百年ほど前になります。

 この度、僧侶として、浅学非才の身ながらも、これまで私なりに仏教の学びを進めて参りました中、僭越ながらもその理解について一度まとめさせて頂きまして、更なる理解へ向けての一里塚と致したく、この本を執筆させて頂きました次第でございます。

 また、読者の皆様方が仏教の学びを進められる上で、少しなりともご参考になるところがありましたら、誠に幸いでございます。

 仏教の真理につきまして、ここにおいて私が述べさせて頂きましたことが、絶対的に正しいとは、私自身も当然に思ってはおりません。

 なぜならば、人間の認識・判断・理解におきましては、その人の経験・学習・知識からの考え方・思想・主義・主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意《しい》的要素が相当に入ってしまうことが多々あるため、当然にまだまだ私自身においてもしかりであります。内容に関しまして、必ずご批判、ご反論もあることと存じます。ご批判、ご反論もしっかりと受けとめて、確かなる仏教の理解へ向けて、今後更に歩みを進めていければと考えております。

 また、私自身、本論における解釈・解説につきまして、ここに書かせて頂きました内容に執着するつもりも毛頭ございません。間違いは間違い、誤りは誤りとして認めるべきところが出てくれば、それはしっかりと受け入れて認めて、修正・変更していきたいと考えています。

 そのため、本論を読み進めて頂きます上におきましては、あくまでも内容はまだまだ一僧侶の未熟なる理解にしか過ぎず、仏教の真理につきましては、読者の皆様方の精進努力による真理探究、見極めも当然に大切であると考えております。

 このことをまずはご理解賜りまして、これからも共に仏教の学びを進めさせて頂ければ幸いでございます。

 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。三界における全てのものたちが苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

 川口 英俊 合掌

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
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感興のことば・第29章・15・16

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第29章・15・16

第29章 ひと組みずつ

15 つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮し、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、情欲・怒り・迷妄・慢心・貪り・愛執にうちひしがれる。弱い樹木が風に倒されるようなものである。

16 つねにこの世のものを不浄だと思いなして暮し、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに勤めはげむ者・心の統一している者は、情欲・憎しみ・迷妄・慢心・貪り・愛執にうちひしがれない。堅固な岩山が風にゆるがないようなものである。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

15 つねにこの世の(世俗なる)ものを浄らかだと思いなして暮し、感官(六受、六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕)を慎まないで、食事の節度を知らず(足るべきをわきまえず)、目ざめているときにも下劣な者は、情欲・怒り・迷妄・慢心・貪り・愛執にうちひしがれる。弱い樹木が風に倒されるようなものである。(煩悩にやられてしまい迷い苦しむ)

16 つねにこの世の(世俗なる)ものを不浄だと思いなして暮し、感官(六受、六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕)をよく慎しみ、食事の節度を知り(足るべき知り)、目ざめているときに勤めはげむ(精進努力)者・心の統一(禅定)している者は、情欲・憎しみ・迷妄・慢心・貪り・愛執にうちひしがれない。堅固な岩山が風にゆるがないようなものである。(煩悩にやられずに迷い苦しまない)

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感興のことば・第28章・36・37

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第28章・36・37

第28章 悪 

36 悪いことをしたならば、ひとは憂える。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。悪いところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

37 善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

36 悪いこと(悪行)をしたならば、ひとは憂える。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。(輪廻で)悪いところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む(苦しむ)。

37 善いこと(善行)をしたならば、ひとは喜ぶ。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。人に知られずにしたこと(陰徳)であっても、ひとは喜ぶ。(輪廻で)幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ(安楽なる涅槃に近づく)。

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感興のことば・第28章・24・25

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第28章・24・25

第28章 悪 

24 僅かでも悪いことをしたならば、つねに来世に苦しみを生じ、大きな禍を生ずることになる。---毒が腹の中にあるようなものである。

25 僅かでも善いことをしたならば、来世に安楽をもたらし、つねに大いなる福楽を生ずることになる。---穀物が積もり集まったようなものである。(やがてすばらしい果実を生ずるであろう。)

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

24 僅かでも悪いこと(悪行)をしたならば、つねに来世(輪廻)に苦しみを生じ、大きな禍(わざわい)を生ずることになる。---毒が腹の中にあるようなものである。

25 僅かでも善いこと(善行)をしたならば、来世(輪廻)に安楽(なる心)をもたらし、つねに大いなる福楽(涅槃へと至る過程)を生ずることになる。---穀物が積もり集まったようなものである。(やがてすばらしい果実を生ずる(輪廻の苦から解脱し、完全なる涅槃へと至る)であろう。)

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感興のことば・第28章・12・13

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第28章・12・13

第28章 悪 

12 人は他人を浄めることはできない、---もしもその他人が内的に心のはたらきが浄らかでないならば。金剛石が宝石を磨くように悪人を錬磨すること〔はできない。〕

13 眼のある人は、不平等のようなことがらに勇敢に打ち克つ。---たとい何かが存在していても。賢者は、この命あるものどもの世界において、悪いことがらを全く避けるべきである。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

12 人は他人を浄めることはできない、---もしもその他人が内的に心のはたらきが浄らかでないならば。金剛石が宝石を磨くように悪人を錬磨すること〔はできない。〕(己の心は己によって清らかにしてゆき、己に克たなければならない。)

13 眼のある人(ブッダ)は、不平等のようなことがら(偏見・独断・自己満足・自己都合)に勇敢に打ち克つ。---たとい何か(煩悩・妄執・我執・愛執)が存在していても。賢者は、この命あるものどもの世界(諸行無常・諸法無我なる世)において、悪いことがら(悪業)を全く避けるべきである。

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感興のことば・第28章・10・11

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第28章・10・11

第28章 悪 

10 人が何をしようとも、その報いが自分に起るのを見る。善いことを行なった人は良い報いを見、悪いことを行なった人は悪い報いを見る。

11 みずから悪をなすならば、つねに自分が汚れる。みずから悪をなさないならば、自分が浄まる。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

10 (他)人が何を(どのようなことを)しようとも、その報いが自分に起るのを見る。(因果応報)。善いことを行なった人は良い報いを見(善行善果)、悪いことを行なった人は悪い報いを見る(悪行悪果)。

11 みずから悪をなすならば、つねに自分が汚れる(悪行悪果)。みずから悪をなさないならば、自分が浄まる。

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感興のことば・第28章・1・2

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第28章・1・2

第28章 悪 

1 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、---これが仏の教えである。

2 わかち与える人には功徳が増大する。みずからを制するならば、ひとが怨みをいだくことは無い。善い人は悪を捨てる。情欲と怒りと迷妄とを捨てるが故に、煩悩の覆いをのがれる。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

1 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、---これが仏の教えである。七仏通戒の偈として有名な「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」であります。

2 わかち与える人(少欲知足、慈悲喜捨を実践している人)には功徳が増大する。みずからを制する(克己する)ならば、ひとが怨みをいだくことは無い。善い人は悪(煩悩・悪感情・悪業)を捨てる。特に煩悩の三毒である情欲(貪欲)と怒り(瞋恚)と迷妄(愚癡)とを捨てるが故に、煩悩の覆いをのがれる。(安楽なる涅槃に至る。迷い・苦の輪廻から解脱する)。

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感興のことば・第27章・40・41

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第27章・40・41

第27章 観察 

40 ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである。しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。

41 (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、その(無明が)あるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起るのである。この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

40 ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである(諸法無我が理解できずに我執することで苦しみが生じるのである)。しかし(すべてが)苦しみ(一切皆苦)であると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということ(我があるということは無いの)を、つねにさらに吟味して見るのである。

41 (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたもの(無常なるもの)を苦しみであるとは見ないのであるが、その(無明が)あるが故に、すがた(形成されたもの、我)をさらに吟味して見るということが起るのである。この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅する(諸法無我・縁起なる空な)のである。

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感興のことば・第27章・33・34・35

感興のことば・ウダーナヴァルガ・第27章・33・34・35

第27章 観察 

33 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、明らかな智慧をもって、四つの尊い真理を見るときに、---

34 すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの部分よりなる尊い道(八聖道)とを(見るときに)、

35 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよって、あらゆる苦悩から免れる。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

33 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに(仏法僧の三宝に)帰依する人は、明らかな智慧をもって、四つの尊い真理(四聖諦、苦・集・滅・道)を見るときに、---

34 すなわち(1)苦しみと(一切皆苦)、(2)苦しみの成り立ちと(無明、煩悩、渇愛・執着、我執・愛執・妄執・)、(3)苦しみの超克(涅槃寂静、煩悩の尽滅)と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの部分よりなる尊い道(八聖道、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)とを(見るときに)、

35 これは安らかなよりどころ(安楽なる涅槃の域)である。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよって、あらゆる苦悩から免れる(迷い・苦の生存から解脱する)。

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