川口英俊の晴耕雨読ブログ

ダンマパダ・法句経・第14章・195・196

ダンマパダ・法句経・第14章・195・196

第14章 ブッダ

195・196 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたはその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

もはや真理に目覚めて悟りを開き、意味のない虚妄な論議も行わずに、三界への輪廻転生の憂いと苦しみが無くなり、何ら恐れるものも無くなって、安らぎ(涅槃)に至った尊い人々であるブッダたち、また、その弟子たちに喜捨供養をしたならば、その功徳についてはいかなる人も推し量ることができないほどに無量である。

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ダンマパダ・第14章・190・191・192

ダンマパダ・法句経・第14章・190・191・192

第14章 ブッダ

190・191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。--- すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(おわり)におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。

192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免(まぬが)れる。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

仏教における真理の真髄を示した重要な三つの句であります。

仏法僧の三宝に真に帰依したる者は、正しい智慧によって、四聖諦を悟ることとなる。四聖諦こそ最上たる安楽(涅槃)のよりどころであり、三界(欲界・色界・無色界)の輪廻転生の苦悩から解脱するためのよりどころである。

四つの尊い真理・・四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)

苦諦・・諸行無常・諸法無我がなかなか理解できずに無明の中、苦しんでいる真理。
集諦(じったい)・・その苦しみの原因は執着(妄執)・煩悩にあるという真理。
滅諦・・執着(妄執)・煩悩を滅した境地が悟りであるという真理。
道諦・・執着(妄執)・煩悩を滅して悟りの境地に達して、苦しみから解脱して涅槃へと至るには、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の実践が必要になるという真理。

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ダンマパダ・法句経・第14章・186

ダンマパダ・法句経・第14章・186

第14章 ブッダ

186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

諸行無常、諸法無我、本来無一物なるこの世においては、欲望を出しても何も得ることができずに満足することはない。例え、数え切れないほどの貨幣の雨が降ったとしてもである。ただの一瞬・一時、本能のおもむくままに快楽に浸れて、喜び、幸せを感じたとしても、それが長く限りない苦痛を生むこととなり、執着・煩悩の種となって輪廻転生の苦しみの中を彷徨い歩く原因となるであろう。欲望を満たすことは不可能であることをまずは理解して、欲を少なくし、足るべきを知り、執着・煩悩を無くすことに精進しなければならない。

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ダンマパダ・法句経・第14章・184・185

ダンマパダ・法句経・第14章・184・185

第14章 ブッダ

184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は(道の人)ではない。

185 罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。---これがもろもろのブッダの教えである。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

煩悩に負けないように己を自制し、克己して耐(堪)え忍ぶのは、実に厳しい修行である。涅槃(=ニルヴァーナ・苦の輪廻転生からの解脱)は最高の安楽にあると目覚めたる人たち(=ブッダ)は説き奉る。他人を害するものは出家者にあらず、他人を悩ます者は、仏道を歩む者ではない。罵らず、害わず、戒律を守り、食事も貪らずに足るところを知り、俗世間とは隔絶したるところにて独り坐して臥し、心の修養に努め励むこと。これがブッダたちの教えである。

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ダンマパダ・法句経・第14章・183

ダンマパダ・法句経・第14章・183

第14章 ブッダ

183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、---これが諸の仏の教えである。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

仏教の真髄を表したものが、183であり、これがつまり「七仏通誡偈」と言われるもので、過去七仏(釈尊を含む)を讃える偈として、日本においても特に禅では重んじられて読経されています。

諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶつきょう)

この偈の意味を理解できたとしても、真に実践することはなかなかにも難しいものであります。

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ダンマパダ・法句経・第14章・179・180

ダンマパダ・法句経・第14章・179・180

第14章 ブッダ

179 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。ブッダの境地はひろくて涯(はて)しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘(いざな)い得るであろうか?

180 誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

悟りを得たる者(ブッダ)は、この世の最勝利者であり、この世の最後の生であり、もはやいかなる世俗の煩悩たち(マーラ)も彼を打ち負かすことはできない。執着・妄執を完全に無くし、煩悩を滅したその境地は、無量にして、自在であり、まるで虚空を歩くがごとくであり、俗人には到底知り得ることができない。

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仏教雑談・1

さて、ここ一ヶ月ほど、ダンマパダ・法句経についての学びをこのブログにて進めて参りました。

そして、日本テーラワーダ仏教協会における月刊誌・パティパダー、スマナサーラ長老の著書、法話・ダンマパダ講義のDVDによる根本仏教の学びも一年あまりが過ぎました。

今現在、もっとも私が考察しているのは、「執着をいかにして完全に無くすか」ということであります。

諸行無常、諸法無我の理解が深まれば、この世においては何もしがみつけないことが分かります。己の身体自体もしかりであります。

一切皆苦の原因は、もちろん、諸行無常、諸法無我を理解できずに、(自ら歓んで・楽しんで次々と)煩悩・執着を抱えてしまっていることにあります。

《ダンマパダ・第11章・老いること・146》
何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?---世間は常に燃え立っているのに---。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

・・何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?・・

世俗の幸せごと、楽しみごと、歓びごととして、例えば「結婚をする」、「子どもをもうける」、「出世する」、「友達・仲間を作る」、「財産を殖やす」などがありますが、現実において、では本当にそれらによって「幸せになった」といえるものなのかどうかについてであります。

---世間は常に燃え立っているのに---

少しうがった見方かもしれませんが、上記のことで幸せになるということはほとんど無く、実は逆に「苦しみとなる・不幸になる」ことの方が多いように思えます。一瞬・一時の快楽・幸せはあったとしても、結局は迷い・苦しみが増える結果となってしまっているのではないかと考えます。つまり世間においては、執着・煩悩の種となる原因を自ら進んで作ってしまって苦しんでいるということであります。

別に、「結婚をする」、「子どもをもうける」、「出世する」、「友達・仲間を作る」、「財産を殖やす」など、これらのことが悪い、やってはいけないということではありません。

要は、これらのことも、所詮は諸行無常・諸法無我の中、本来無一物であり、何も自分のもの(所有)になるわけではなく、また、しがみつけないし、囚われてもいけないものであり、変わっていくものであり、何も頼りにもならず、思い通りにもならず、当然に期待もできないということであります。このことをしっかりと理解してさえいれば、無理に執着してしがみついて離さないように抵抗したりせずに済みます。

無理に執着して貪り・怒りを増幅させてしまっていけば、やがては、詐欺や強盗、殺人(または自殺)など罪を犯してしまうところまで行き着き、身を滅ぼす結果となってしまうことも世間においては多々見受けられます。

ですから、この世においては欲を出して何かをするにしても、してしまったとしても「執着」はしないということが第一で、貪らず、怒りも抱えず、「少欲知足」において過ごすことが大切になると考えます。

但し、勘違いしてはならないことに、執着を無くすことと、自分の責任・義務を放棄することは当然に違います。例えば、執着を無くすのだと、幼い子どもを捨てたり、ほったらかしにするのは当然に悪行為で罪となります。子どもに対して親としての保護責任・監督責任は果たす必要があります。この場合は、一人前の大人として立派な社会人にまで育ててから、子どもに対しての執着を無くすようにすれば良いのであります。

とにかく、諸行無常・諸法無我の理解を深め、執着・煩悩の種となるものをできる限りに抱えない、作らないようにして過ごしていくことが仏教的な賢い生き方というわけであります。そして、最終的には、執着・煩悩を滅し、苦から完全に解脱して涅槃へと至る道を歩むことが求められるということであります。再び迷いの生存に戻ってこないように。再び三界(欲界・色界・無色界)の苦しみの中に戻ってこないように。

・・諸行無常なるこの世において、何をのんびりと笑い、歓んでいるのか!こうしている間にも汝の身体は醜く衰え果て、脆くも滅び去ろうとしているのに!さあ、早く諸行無常・諸法無我の真理という燈明を悟り、無明を離れ、解脱・涅槃への道を求めよ!・・

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ダンマパダ・法句経・第13章・178

ダンマパダ・法句経・第13章・178

第13章 世の中

178 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(預流果(よるか))のほうがすぐれている。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

この地球上の征服者となるよりも、天界へと至るよりも、全宇宙の主権者となるよりも、仏・法・僧の三宝に帰依する聖者・第一階梯(預流果)の方が優れている。

預流果(よるか)について・・
預流とは聖者の流れ(仏・法・僧の三宝への帰依)に入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く位にまで修行の段階が至ったこと。

四向四果・・
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/

四向四果 (しこうしか)とは、部派仏教や上座部仏教における修行の階位で、預流向(よるこう)、預流果、一来向(いちらいこう)、一来果、不還向(ふげんこう)、不還果、阿羅漢向(あらかんこう)、阿羅漢果のことをいう。

「向」とは修行の目標、「果」は到達した境地を示す。向と果の名称が同じ、八種の段階にある人ということで、「四双八輩」(しそうはっぱい)ともいう。

1. 預流とは聖者の流れに入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く位。
2. 一来とは1回人と天の間を往来して悟りに至る位。
3. 不還は欲界には再び還らず色界に上って悟りに至る位。
4. 阿羅漢は今生の終りに悟り涅槃に至り再び三界には生れない位をいう。

・・出典ここまで。

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ダンマパダ・法句経・第13章・170・171

ダンマパダ・法句経・第13章・170・171

第13章 世の中

170 世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

171 さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

この世においては、あらゆるものは移ろい変わりゆく中にあり、泡沫・陽炎のようにはかないものである。このことを理解し、諸行無常・諸法無我なる真理をしっかりと悟る者は、苦しみから解脱して涅槃に入り、再び迷い(煩悩)の生存に戻ることはない。真理を知らず無明の中にいる者は、やがては脆くも衰えて滅びゆくモノに囚われて耽溺してしまい、悩み苦しみ続けることとなる。真理を悟った者は、やがては脆くも衰えて滅びゆくモノには一切執着せず、悩み苦しむこともなくなる。

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ダンマパダ・法句経・第13章・168

ダンマパダ・法句経・第13章・168

第13章 世の中

168 奮起(ふるいた)てよ。怠けてはならぬ。善い行ないのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

怠けずに励み、真理(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦の四法印、苦諦・集諦・滅諦・道諦の四聖諦)に従って、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)を実践して善行を積めば、生あるこの身においてでも、または肉体が滅んだ後であっても涅槃(安楽の域)に達することができる。

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