川口英俊の晴耕雨読ブログ

ダンマパダ・法句経・第二章・二十五

ダンマパダ・法句経・第二章・二十五

第二章 はげみ

二十五 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

例えいかなるような状況、またはいかなるような時代を迎えようとも、煩悩に負けることなく、帰依するべき釈尊の教えをしっかりと守り、解脱・涅槃へ向かって「はげむ」ことが大切であります。

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ダンマパダ・法句経・第一章・十九・二十

ダンマパダ・法句経・第一章・十九・二十

第一章 ひと組ずつ

十九 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。---牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類に入らない。

二十 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執著することの無い人は、修行者の部類に入る

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

とにかく仏教を学ぶ者は、実践主義にならなければいけません。言行一致が大切であります。

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ダンマパダ・法句経・第一章・五・六

ダンマパダ・法句経・第一章・五・六

第一章 ひと組ずつ

五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

六 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。---このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

怨みは怨みによってはやまない。争いは争いによってはやまない。争いごとの種となる欲望・煩悩・怨み・怒り・嫉妬・恐怖・不安などを無くすように精進しなければいけない。

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ダンマパダ・法句経・第一章・一・二

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳を購入しました。

ダンマパダは、真理の言葉という意味で、釈尊の語録であり、もっとも古い仏典の一つであります。まさに仏教の原点とも言えます。

これから少しずつ読み進める中で、このブログにおいては、特選したものを紹介したいと存じます。

まずは、

第一章 ひと組ずつ

一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。---車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

二 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。---影がそのからだから離れないように。

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

英俊・解釈コメント

あらゆる事象についての苦も楽も単に心が産み出すもの。心の清濁次第によるところである。

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無常偈

昨日に涅槃経・第十三・雪山童子のジャータカ物語を取り上げさせて頂きました。

諸行無常
是生滅法
生滅滅巳
寂滅為楽

「諸行は無常にして、是れ生滅の法なり。生滅滅し已(おわ)って、寂滅を楽と為す」

仏教において、この「無常偈」は誠に大切な真理であります。

今の私なりに解釈すると、

「この世における全ては、移ろい変わり行く中にあるという無常であり、これは、生じては滅するという理であります。生滅(の原因となる煩悩・執着)を完全に滅し、生滅を超越し終ってこそ、静かなる安らぎ(涅槃)を得て、(輪廻転生における一切の苦から解脱し)楽と為るのである。」であります。

解釈の一つとして、日本における「いろは歌」がこの内容について表されていると考えられています。

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

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涅槃経・第十三・雪山童子

貪・瞋・痴を滅するという目的のために、諸行無常・諸法無我を理解しようと努力するのも誠に大切なことですが、そうではなくて、諸行無常・諸法無我を真に理解さえできれば、当たり前のように貪・瞋・痴は滅されるものになるのではないかと考えます。

つまり、まだ貪・瞋・痴のいずれかが出るようであれば、諸行無常・諸法無我の理解が十分ではないということであります。

また、諸行無常を真に理解したならば、即座に諸法無我の理解にも及ぶものでもあります。

仏教において、輪廻転生の苦より解脱し、涅槃へと至るためにも「諸行無常」の理解はまずもって第一であり重要であると考えます。

諸行無常
是生滅法
生滅滅巳
寂滅為楽

涅槃経・第十三・雪山童子・参照
http://bouzu893.hp.infoseek.co.jp/setsuwa/setsuwa001.html

 昔、雪山(ヒマラヤ)にひとりの苦行外道がいた。彼は雪山童子と呼ばれた求道者で、衆生利益のために、自分を犠牲にして顧みず、種々の苦行を修めていた。

 しかし、帝釈天(たいしゃくてん)は、そんな雪山童子の法を求める態度に疑いを持っていた。悟りを開こうとする者は多いが、ほとんどの求道者は、わずかな困難に出会うと、たちどころに退転してしまう。それは、ちょうど、水に映った月が、水の動くままに揺らぐようである。多くの者は、鎧や杖で身を固め、物々しいいでたちで、賊の討伐に向かうけれど、いよいよ敵陣に臨むと、恐怖に駆られて退却する。同様に、悟りを開こうと固い決意をした人も、生死の魔軍に出会えば、求道の心を失う。雪山童子の苦行は本物なのだろうか。

 車に車輪がふたつあれば、運搬の用に立つ。鳥に双翼があれば、空を飛べる。同様に、修行者も、戒を保つだけでなく、正真の智慧がなければ、悟りに到ることはない。はたして、雪山童子が、修行を完成できるだけの人物であるかどうか、試してみよう。

 そう思った帝釈天は、見るも恐ろしい羅刹(らせつ=鬼)に姿を変えると、天上から雪山へ下ってきた。そして、雪山童子の間近までやって来て、立ち止まると、過去世の仏が説いた偈文(げもん=詩句)の半分を、声高らかに唱えた。

諸行無常 (しょぎょうはむじょうなり)
是生滅法 (これしょうめつのほうなり)

 羅刹は、偈文の半分を唱え終わると、四方を見回した。これを聞いた雪山童子は、大いに喜んだ。それは、まるで、深山で伴とはぐれた旅人が、恐怖とともに闇夜を彷徨ったあげくに、再び伴と出会ったような思いだった。喉の渇いた人が、冷水に出会ったようでもあり、長く病床にある人が、名医に逢ったようでもあり、海に溺れた人が、船に出会ったようでもあった。雪山童子は、辺りを見渡したが、恐ろしい羅刹以外は、誰もいなかった。

 よもやとは思ったが、童子は、羅刹に訊ねた。
「大士よ、あなたはどこで、過去の仏の説いた偈文を聞いたのでしょう。その偈文は、過去現在未来の三世に渡る仏の教え、真実の道です。世間の人間でさえ、ほとんど、知ることのない教えです。本当に、どこで、その偈文を聞いたのですか。」
「出家者よ、そんなことを聞いても無駄だ。私は、もう、幾日も食べ物が手に入らないので、飢えと乾きで心が乱れて、でたらめを言ったのだ。」
「大士よ、もし、残りの偈文を説いてくれるならば、私は、終生、あなたの弟子になります。先ほどの偈文だけでは、字句も不完全だし、義も尽きてはいません。どうか、残りの偈文を教えてください。」
「出家者よ、私は、飢え、疲れているから、説くことができないのだ。」
「大士よ、あなたは何を食べるのですか。」
「私の食べ物は、人肉だ。飲み物は、人の生き血だ。」
「大士よ、話は分かりました。残りの偈文を聞くことができたら、私は、この肉体をあなたに差し上げましょう。たとえ天寿を全うしても、どうせ、私の死体は、獣か鳥に食われるだけです。しかも、食われたからといって、何の報いがあるわけでもありません。それならば、悟りの道を求めるために、この身を捨てる方が良いでしょう。」
「では何か。わずかな偈文のために、肉体を捨てようと言うのか。しかし、そうは言っても、誰も信じないだろう。」
「あなたは無智ですね。瓦の器を捨てて、七宝を得ることができるなら、誰でも喜んで瓦を捨てるでしょう。」
「お前が本当にその身を捨てるというなら、残りの偈文を説いてやろう」。

 雪山童子は、羅刹の言葉を聞いて、身につけていた鹿皮を脱いで、羅刹のために法座を設け、
「大士よ、どうかここにお座り下さい。」
と言うと、合掌してひざまづいて、一心に残りの偈文を求めた。
羅刹は、厳かに残りの偈を説いた。

 生滅滅已 (しょうめつめっしおわりて)
 寂滅為楽 (じゃくめつをらくとなす)

 こう説いてから、羅刹は、約束通り、雪山童子の肉体を求めた。
「出家者よ、お前は、すでに、偈のすべてを聞いた。願いはかなえられたのだから、約束通り、私に肉体を施してくれ。」

 雪山童子は、覚悟の上のことだから、肉体を捨てることに何のためらいもなかった。しかし、このまま死んでしまっては、他の人々のためにはならない。そこで、辺りの石や、壁、道や樹木に、手当たり次第に、この偈文を書き留めてから、死後に身体の露出することを懼れて、衣服を整えると、高い木に登った。そして、羅刹との約束を守って、地上へと身を投げた。

 ところが、雪山童子の身体が、まだ地上に落ちないうちに、羅刹は帝釈天の姿に還り、空中で童子の身体を受けとめると、地上に置いた。
 時に、帝釈天を初め、諸天の人々は足下にひれ伏して、童子にこう言った。

「あなた様は、無量の衆生を利益して、無明の闇の中に、大法の炬(たいまつ)を燃やそうとする以外には、何も求めようとしない。あなた様こそは、真の菩薩です。そんなあなた様を苦しめたのも、ただただ、仏の大法を愛すればこそです。どうか私の懺悔をお聞き届け下さいまして、未来に悟りを得られた暁には、お救い下さいますようお願い致します。」

 半偈のために身を捨てた苦行外道の雪山童子は、後の世の、お釈迦様である。

 また、この物語にちなんで、「諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」を、雪山偈と呼び慣わしている。

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無常の中で

以前に紹介させて頂きました根本仏教・日本テーラワーダ仏教協会における学びについては、会員を継続して進めております。

これまで学びの中心は主に月刊誌でしたが、最近は法話DVDも買い揃え始めて、できる限り空いている時間を使って、アルボムッレ・スマナサーラ長老の講義を視聴するようにしています。これまでのバックナンバー全てを終えるには恐らくあと半年あまりは掛かるだろうと思いますが、少しずつ理解のメモ程度でもこのブログに書いていければと考えております。

最近、特に考えているのは、この無常の世における過ごし方であります。

もっとも良いのは、「何にも執着せずに、できる限りに渇愛・煩悩を出さず、全ての生きとし生けるものたちに対しての配慮を忘れず、尚且つ迷惑を掛けないようにする生き方」と考えております。

少し言い換えると、「生きていく上で最低限に必要なこと以外、極力余計なことは何もしないように努めながら(少欲知足)、できる限り何ものにも迷惑を掛けないように過ごすこと」であります。

なかなか難しいことではありますが、とにかく「無執着・少欲知足・無為自然・慈悲の心」が大切でありますね。。

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「諸法無我について」・1

「諸法無我について」・1
往生院だより・平成19年7月号・コラム
http://oujyouin.com/tayori1907.html

 今回は、仏教の本質の中でも「諸行無常」と並び四法印の一つとして大切な概念である「諸法無我」について述べて参りたいと存じます。
 「諸法無我」とは、端的に述べさせて頂くと、全てが変化して移ろう中にあるという無常において、全てのものには、固定した実体としての「我」は無く、また、変化しない「我」も無いのだということであります。それでも私たちは、変わらない永遠不変な何かがあるのではないかと、探し求めて彷徨い、迷い苦しんでしまうのであります(煩悩)。このように「諸行無常」・「諸法無我」という真理に暗くなってしまっている状況のことを仏教では「無明」と言います。
 そして、この世には永遠不変なものなど何も無いということが理解できず、不満の中を過ごしながら、とにかく満足を求めていくことにしがみついて、囚われてしまっている状態のことを「執着」と言います。更に、この「執着」をなかなか離すことができないという人間が本来的に持ってしまっている欲望のことを「渇愛」と呼び、これら煩悩の原因となってしまっている「渇愛」、「執着」、「無明」のそれぞれが著しく激しいことを、特に三毒として「貪」、「瞋」、「痴」と言います。
 さて、「諸法無我」のことに戻りますが、まず例えば、この解釈について、禅においては「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」)、西田(幾多郎)哲学においては、「絶対矛盾的自己同一論」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)と表わされているものと私は考えておりますが、つまりは、「諸行無常なる変化をそのままに受け入れて、自己も既に刻々と自己で無くなっていく、変化する自己そのものが自己なのであるということをしっかりと見極めること」と私は理解しています。
 この「諸法無我」を理解することの目的は、己の自我(精神・肉体)に対する「我執」を無くし、そして、あらゆる全てのものに対しての「執着」をも同時に無くして、煩悩(特に貪・瞋・痴の三毒)を滅していくことにあると考えます。煩悩を滅するために、よく僧侶が瞑想・坐禅を行うのも、刻々と変化し続けていく自分自身を見つめて、それを真に受け入れながら、あらゆる全てについての変化をも真に受け入れて、そしてその結果、あらゆる執着を捨てていくためであります。
 ゆえに皆さんも煩悩(渇愛・執着・無明、貪・瞋・痴)を抱えてしまい、悩み苦しんでしんどくつらい状態にあるのであれば、自己を見つめ、この世のあらゆる現象を見つめながら、刻々と変化していくこの世の一切の全てを受け入れて、煩悩を無くしていくための機会として、少しの時間でも余裕を作り、瞑想・坐禅を行うことをお勧めする次第であります。
 次回のお盆特別号では、もう少し「諸法無我」について補完し、慈悲との関係についても考察したいと存じます。

川口 英俊 拝

往生院だよりコラム・バックナンバー
http://oujyouin.com/tayori.htm

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「諸法無我」

次回の往生院だより・7月号の内容は、「無我」について述べさせて頂こうと考えておりまして、現在推敲中であります。

これまで「諸行無常」に関することについては、ある程度取り上げさせて頂いて参りました。今回は三法印・四法印の一つとして誠に重要である「諸法無我」について、しっかりと考察したいと存じます。また、8月お盆特別号においても補完したいと思います。

これまでの往生院だよりコラム・バックナンバー
http://oujyouin.com/tayori.htm

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「無我」

昨日の「無常」の中において、「無我」について触れましたが、正式には「諸法無我」で、四法印の一つであります。残りの三つは、「諸行無常」・「涅槃寂静」・「一切皆苦」です。

前回、書道教室における出展(やまなみ祭り)は色紙「無常」でありましたが、今回、有墨書展への出展課題としては色紙に「無我」と考えています。

前回、色紙「無常」





・・一切の執着を離すためには「無我」も理解しなければなりません。つまり、無常なる(変化していく)自分が自分なのだということの理解が必要となります。

即非の論理、西田哲学における絶対矛盾的自己同一でもあります。

無我こそ我であることを知ること。・・

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