川口英俊の晴耕雨読ブログ

「絶対矛盾的自己同一」

故田中守道氏のサイト、「〈空観〉正しいものの観方」・「2-12『矛盾について』」における「観燃可燃品第十」の内容について26日に触れさせて頂きましたが、更にその中から引用の引用ですが、・・(『龍樹・親鸞ノート』三枝充悳著法蔵館刊より抜粋引用)・・

『いま火が燃えさかっている薪というありかたを見てみよう。私たちは、そこに火があり、薪がある、という。しかしながら、そのメラメラと燃えているどこからが火で、どこまでが薪であるか、それをはっきりと区分して、ここが火でここが薪だとすることは、なんびと荷も不可能である。両者は一体となって――両者の区分を全面的に拒否しつつ全く一体化していて、そしてそこに火があり薪があるといわれる。
 一体化して燃えあがる以前には、火はそこにはない。薪も単なる木片にすぎず、まだ薪(燃料)とはなっていない。燃えはじめたときに、すでに木片は単なる木片ではなくて薪と なり、火もまたそこに現前化する。そして上述のようなありかたにおいて、両者が或る点において結合して一体化してはじめて、火があり、薪がある、という。
 これは両者の一体性をあらわしており、且つ相互肯定的なありかたを示している。縁起のいわゆる相依性(相互依存関係)がここに表明されている。
 ところが現実に薪に燃えている火は、決して静止したままではいない。火はさらに燃え盛っていくか、または徐々に消えかかっていくか、どちらかいずれかである。この場合、火が燃え盛っていくとは、薪を減少させていくことである。火が消えかかっていくとは、薪を増大させていくことである。いかえれば、火を肯定していくことは、薪を否定していくことであり、逆に、火を否定していくことは、薪を肯定していくことになる。すなわち、火と薪との肯定・否定の関係は、前に述べた場合とは異なって、一方の肯定が他方の否定に通じて、相互に反対の関係にある。ここには、縁起は相互排除性を孕んでいて、さらに押し進めれば、矛盾的対立のありかたを示している。縁起のいわゆる逆の形の相依性が表明されている。
 さらに火がいっそう燃えていったならばどうなるか。薪はますます小さくなる。火を肯定し、薪を否定することが進行していって、ついに薪が燃え尽きたときに、火の存在する 場所がすでにない。こうして火もまた消滅する以外ない。いいかえれば、火はすでにそこに存在せず、否定されている。すなわち、肯定の一方的進行がそれ自身の自己否定というありかたで終止符を打つこになる。
 それとも逆に、火がだんだんと消えかかっていくならばどうか。薪は燃える場所を減らし薪の部分を増大する。火の否定の進行が薪の肯定の進行に繋がりながら、もしも火が消 えてしまって、火の否定が成就したとき、そこには薪もまた存在せず、一個の木片がころがっているにすぎない。すなわち、否定の進行が、当然そのものの否定の完成となり、同時にそれと矛盾的対立にあった――即ち肯定を進行させていたものも滅び去って、そこにはやはり自己否定があらわとなる。
 こうして、対立し合う二者の間の肯定・否定の進行は、もともと相反的であるはずであり、初めはその通り進んでいって、一方の肯定=他方の否定となり、一方の否定=他方の肯定となるけれども、もしも一方がそれを強制し、自己の肯定のみを(すなわち他方の否定のみを)強行するときには、その肯定が他方の存在そのものを消滅させて、肯定が成就したかに見える場合、いつか自己も消滅せざるを得ず、肯定どころか、否定をも突き破って、肯定ないし否定するその当体がすでにそこに存在しない。即ち相互対立に於ける両者は、対立を残していない限り、みずから自己を滅ぼしてしまう結果を招く』・・引用ここまで。

これこそがつまり、西田幾多郎氏の哲学大成「絶対矛盾的自己同一」、そのままのことではないかとふと気づきました。おおーという感じであります。

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プチコッコ逝去に際して

今朝にプチコッコが逝去致しました。

2002年11月27日に生まれた二羽のプチコッコが、縁により2003年2月に当山に参りまして、寺務所横の小屋にて過ごすこととなりました。2004年10月に一羽が逝去し、残った一羽がこの度逝去致しました・・

プチコッコのページ
http://oujyouin.com/puchicoco.htm

在りし日のプチコッコの画像がたくさんあるブログ
http://yaplog.jp/hidetoshi/

http://ameblo.jp/hidetoshi-k

私自身、様々な苦しい時にどれほどに心の支えとなったか分かりません・・また、お参りの方々にも大変に人気があり、みんなに可愛がって頂けました。ありがとうございました。

しかし、諸行無常なる中、この度のプチコッコだけが、特別だという思い、愛執ももちろんありません・・ただ、安らかなる涅槃へと至ってくれることを願い、供養致しました。

「プチコッコ、ありがとう、さようなら」。

一羽目と共に眠る


・・

身近なものたちの逝去、あらゆるものの生滅変化に際して、あらかじめに思慮しておくべきことについて。以下参照。

「ブッダ最後の旅」中村元訳 岩波文庫
(大パリニッバーナ経・大般涅槃経)より・・

お釈迦様の最後の時を察し、号泣しているアーナンダに対して、お釈迦様はこのように言われました。

「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、---すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころの行為によって、向上し来れる人〈=ゴータマ〉に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」

お釈迦様、臨終の言葉

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
 これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。

尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、神々の主であるサッカ(=帝釈天)が次の詩を詠じた。---
「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。生じては滅びる。これら(つくられたもの)のやすらいが安楽である。」

お釈迦様がお隠れになられた時、まだ愛執の離れていない修行僧たちは嘆き悲しみ苦しみに打ちひしがれましたが、既に愛執を離れた修行僧たちは、「およそつくられたものは無常である。どうして〈滅びないことが〉あり得ようか?」とよく耐え忍びました。尊者アヌルッダは修行僧らに告げた、---「止めなさい。友よ。悲しむな。嘆くな。尊師はかつてあらかじめ、お説きになったではないですか。---〈すべての愛しき好む者どもとも、生別し、死別し、死後には境界を異にする〉と。友らよ。どうしてこのことがあり得ようか?何でも、生じ、生成し、つくられ、壊滅してしまう性のものが、壊滅しないでいるように、というような、こういう道理はあり得ない。・・」

・・ここまで。

施本「佛の道」・第五章・涅槃寂静 より
http://www.hide.vc/hotokenomichi5.html

「諸行無常
 是生滅法
 生滅滅已
 寂滅為楽」

 私の解釈

「諸行は無常であり、これは生じては滅するという理《ことわり》である。この生滅の理の真実が正しくそのままを理解できずに悩み煩ってしまうことが、私たちの苦しみの原因であり、この苦しみの原因となってしまっている妄想の集まりである煩悩の生滅を滅しおわって、煩悩を完全に寂滅して、ようやくに苦しみから解脱した安楽なる涅槃・悟りの境地へと至ることができるのであります。」

・・ここまで。

「こんにちは、ありがとう、さようなら」であります。

平成20年2月24日 川口 英俊 合掌

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仏教雑談

「諸行の無常なることを悟って、寂滅を以て楽となす」

ほぼ三ヶ月間に亘って続けて参りましたダンマパダ・法句経の特選・解釈シリーズも本日で何とか終えることができました。
http://hidetoshi.blog105.fc2.com/blog-category-2.html

仏教の基本は、四法印(諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静)、四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)の真理の理解、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の実践にあります。

悟りへの第一歩は「諸行無常」の理解から始まります。このことをもっと簡単に述べると、「全てが泡沫(ほうまつ・うたかた・(シャボン玉))ということを悟る」ことであり、そして「ほしい」という「渇愛」が無くなり、更に「何もしがみつけるものはない、何も所有できるものはない、何もこだわれるものもない、何も囚われるものもない」という無執着・無所有(・無価値)を理解すれば、特に煩悩の三毒である貪・瞋・痴が無くなり、不貪(貪らなくなる)・不瞋(怒らなくなる)・不痴(愚かさが無くなる)となります。

私たちの苦しみの原因は、「渇愛」・「執着」にあります。「己の身体から宇宙までも、全て所詮はシャボン玉に過ぎないのだ」と理解して、あらゆる全てについての「渇愛」・「執着」を無くすことが、苦しみからの解脱への道であります。

「諸行の無常なることを悟って、寂滅を以て楽となす」

ダンマパダ・法句経、特選・解釈シリーズ完結に記す
平成19年9月7日 川口英俊 合掌 九拝

関連考察

苦しみの素因・仏教雑談
http://blog.zaq.ne.jp/hidetoshi/article/30/
平成19年8月22日

「涅槃寂静」について
http://oujyouin.com/tayori1909.html
往生院だよりコラム 平成19年9月 彼岸号より

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苦しみの素因

「シャボン玉はほしいと思いますか?」と聞いても、普通、誰も「そんなものはほしくは無い」と答える、というよりかは、「ほしいと思ってもすぐに持てなくなるものがシャボン玉じゃないか、そんなものは最初からいらないよ」と答える。

そう、シャボン玉は、あっという間に壊れる泡沫、すぐに形が無くなるもの、一瞬しか形が持たないもの、とみんなちゃんと理解している。であるから、もちろん壊れても形が消えても別に悲しくも苦しくも何とも思わない。

しかし、一方で、己の身体はどうであろうか・・みんないつまでもほしくてたまらない・・少しでも身体が変化して老いゆき、病となって壊れゆくと、死が近づくと、嘆き、悲しみ、苦しむ・・

所詮はシャボン玉も身体も、諸行無常なる中においては、泡沫で脆く崩れ消え去って滅してゆくものに変わりは無い、ではどうして一方では苦しみが生じないのに、一方では苦しみが生じてしまうのか・・

苦しみの原因がそこに隠れています・・それは、「執着」にあります。

諸行無常なる中、己の身体のみならず、あらゆる全てのモノ・現象がシャボン玉と同じだと理解でき、別に己の身体が崩れて壊れて死に近づいても、あらゆる全てのモノ・現象におけることも、当然に単なる生滅の変化だと悟れば、シャボン玉と同じように「ほしい」と思うことも無く、しがみつこうと「執着」することも無くなり、そうすると嘆き、悲しみ、苦しむことも無くなるというわけであります・・

・・平成19年度お盆施餓鬼法要後の法話の中で・・

私たちの苦しみの素因は執着から生じるわけであり、その執着を離す、無くすことで、苦しみから解脱できるようになるわけであります。

執着をもう少し分かりやすく私なりに述べると、価値・所有という誤った妄想を持ってしまうことでもあります。

価値についてもっと簡単に述べると、「特別」という考えとも言えます。私の特別の人・モノ・地位・名誉・財産・時代・・などなど。または主観的優劣・正誤・善悪も「価値」と言えます。

諸行無常、諸法無我なる真理に目覚めれば、当然に無執着、無価値、無所有に至るわけであります。しかし、無明に覆われてしまっている私たちが、そこへと至ることは相当に難しいものであるのも現実・・

無執着・無価値・無所有・・・

この三つをしっかりと理解すれば、心が安楽となり、貪・瞋・痴が無くなり、しかるべくに少欲知足となり、世の争い事、犯罪、戦争、資源の貪り、環境破壊なども無くなり、欲界も安楽になるわけであります。

この世においては、もともと何もしがみつけるものは無い、もともと何も価値は無い、もともと何も所有していない・・という諸行無常なる生滅の理を真に理解して、心の状態を禅定に保つ精進努力が大切となります。

更には、苦しみの生じる原因となる執着・価値・所有という妄想などの集まりである煩悩を完全に滅して、再び迷いの生存に戻ってこないように、輪廻転生の苦しみから解脱できるように涅槃へ向けて頑張らなければなりません。

今の己の身体が滅んでも、人類・生命が絶滅しても、地球・太陽が爆発して宇宙の塵となっても、この宇宙がやがて滅しても、繰り返す輪廻転生から完全に逃れない限りは、次の身体、人類・生命(欲界・六道、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)、地球・太陽、宇宙、色界・物質世界、に留まらずに無色界(欲界・色界を超越した精神的世界)にも輪廻転生し続けることとなり、その劫たるや何千兆年×千万にも亘る場合もあります・・滅しても生が起こるのは煩悩に素因があり、煩悩を完全に滅さない限りは、この生滅変化を繰り返す諸行無常なる一切皆苦からは全く逃れることはできないのであります。

川口 英俊 拝 平成19年8月22日

関連考察

「涅槃寂静」について
http://oujyouin.com/tayori1909.html
往生院だよりコラム 平成19年9月 彼岸号より

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仏教雑談・1

さて、ここ一ヶ月ほど、ダンマパダ・法句経についての学びをこのブログにて進めて参りました。

そして、日本テーラワーダ仏教協会における月刊誌・パティパダー、スマナサーラ長老の著書、法話・ダンマパダ講義のDVDによる根本仏教の学びも一年あまりが過ぎました。

今現在、もっとも私が考察しているのは、「執着をいかにして完全に無くすか」ということであります。

諸行無常、諸法無我の理解が深まれば、この世においては何もしがみつけないことが分かります。己の身体自体もしかりであります。

一切皆苦の原因は、もちろん、諸行無常、諸法無我を理解できずに、(自ら歓んで・楽しんで次々と)煩悩・執着を抱えてしまっていることにあります。

《ダンマパダ・第11章・老いること・146》
何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?---世間は常に燃え立っているのに---。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?

岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より

・・何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?・・

世俗の幸せごと、楽しみごと、歓びごととして、例えば「結婚をする」、「子どもをもうける」、「出世する」、「友達・仲間を作る」、「財産を殖やす」などがありますが、現実において、では本当にそれらによって「幸せになった」といえるものなのかどうかについてであります。

---世間は常に燃え立っているのに---

少しうがった見方かもしれませんが、上記のことで幸せになるということはほとんど無く、実は逆に「苦しみとなる・不幸になる」ことの方が多いように思えます。一瞬・一時の快楽・幸せはあったとしても、結局は迷い・苦しみが増える結果となってしまっているのではないかと考えます。つまり世間においては、執着・煩悩の種となる原因を自ら進んで作ってしまって苦しんでいるということであります。

別に、「結婚をする」、「子どもをもうける」、「出世する」、「友達・仲間を作る」、「財産を殖やす」など、これらのことが悪い、やってはいけないということではありません。

要は、これらのことも、所詮は諸行無常・諸法無我の中、本来無一物であり、何も自分のもの(所有)になるわけではなく、また、しがみつけないし、囚われてもいけないものであり、変わっていくものであり、何も頼りにもならず、思い通りにもならず、当然に期待もできないということであります。このことをしっかりと理解してさえいれば、無理に執着してしがみついて離さないように抵抗したりせずに済みます。

無理に執着して貪り・怒りを増幅させてしまっていけば、やがては、詐欺や強盗、殺人(または自殺)など罪を犯してしまうところまで行き着き、身を滅ぼす結果となってしまうことも世間においては多々見受けられます。

ですから、この世においては欲を出して何かをするにしても、してしまったとしても「執着」はしないということが第一で、貪らず、怒りも抱えず、「少欲知足」において過ごすことが大切になると考えます。

但し、勘違いしてはならないことに、執着を無くすことと、自分の責任・義務を放棄することは当然に違います。例えば、執着を無くすのだと、幼い子どもを捨てたり、ほったらかしにするのは当然に悪行為で罪となります。子どもに対して親としての保護責任・監督責任は果たす必要があります。この場合は、一人前の大人として立派な社会人にまで育ててから、子どもに対しての執着を無くすようにすれば良いのであります。

とにかく、諸行無常・諸法無我の理解を深め、執着・煩悩の種となるものをできる限りに抱えない、作らないようにして過ごしていくことが仏教的な賢い生き方というわけであります。そして、最終的には、執着・煩悩を滅し、苦から完全に解脱して涅槃へと至る道を歩むことが求められるということであります。再び迷いの生存に戻ってこないように。再び三界(欲界・色界・無色界)の苦しみの中に戻ってこないように。

・・諸行無常なるこの世において、何をのんびりと笑い、歓んでいるのか!こうしている間にも汝の身体は醜く衰え果て、脆くも滅び去ろうとしているのに!さあ、早く諸行無常・諸法無我の真理という燈明を悟り、無明を離れ、解脱・涅槃への道を求めよ!・・

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